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専攻:理科教育 主要論文:非識別性多肢選択問題の誤答分析の方法、日本教育工学会       計量法改正がもたらした「重さ・重量・質量」の混乱、物理教      育、 Vol.65-1,20-25,2017        

なぜ起きる、「重量、重さ、質量」の混乱(その3)

By   2015年10月17日

森雄兒

なぜ起きる、「重量、重さ、質量」の混乱(その3)

■3.市民からみた(新)計量法とは、何か?

(その1)、(その2)から日本で起きている「重量、重さ、質量」の混乱は「学術用語」と異なった「経産省・用語法」に起因する事が明らかになったと思います。以下では、この問題に対してもう少し、時間のスパンを広げ、計量法の改正の意味から「経産省・用語法」をながめ、一体なぜこんな事が起きてしまったのか、その底流にあるものを考えてみましょう。

日本は1970年代以降、自動車産業を中心に低コストの部品製造工場を世界各国に建設していきました。こうしたグローバリズムという新しい資本の展開によって、国境を越えて商品の設計・製造・管理システムの一元化が不可欠になりました。財界はそのために、統一した単位系制定を政府に強力に要請していきます。他方、科学技術の急速な進歩から製品開発現場では、量子論や相対論が不可欠となり、使用する単位系の国際的評価が「重力単位系」から「SI単位系」へ大きく変化していきます。

こうした背景から1992年、SI単位を国家全体に丸ごと導入する、(新)計量法の制定が行われました。この法律の制定によって、市民生活にどのような影響があったのでしょうか。それを表1を使って簡潔に説明してみましょう。混乱表1-1

*表の中の「MKS単位」について: MKS単位系は、長さ(メートルm)、質量(キログラムkg)、時間(秒s)を基本とする単位系のこと

表1は1992年以前に(旧)計量法で生活に関連して使われていた主な単位の一覧です。(旧)計量法のもとでは、表にあげた2つ以外にも単位系はあり、研究対象によって能力が異なる複数の単位系が共存しながら社会が回っていました。
その表で注目して欲しいことが2つあります。
一つは、(旧)計量法では商品取引をkg、kg重、kgwなどの「重さ」の単位で行っていたことです。しかし、大きな問題がありました。それは、(旧)計量法では重力単位系の「力、重量、重さ」の単位の記号の一つに「kg」が使われていたと同時に、MKS単位系の質量の記号でも「kg」が使われていました。同じ記号「kg」が「重さ」と「質量」の2つの意味に使用されていため、混乱が絶えませんでした。
もうひとつは、N(ニュートン)という単位は、MKS単位系の「重さや力」の単位でしたが、地球の場所によって同じ質量でもわずかにその重さが変化するので商品取引に使えないことです。そのもう少し詳しい理由は(注2)を参照して下さい。

では、(旧)計量法の状態から(新)計量法に移行して、市民にとって何が変化していったのかを表1を使って見ていきましょう。
MKS単位を拡張したものが、SI単位(国際単位とも呼ぶ)ですが商品取引の問題に限定すると、MKS単位はSI単位と同じとみなしても差し支えがありません。そういうことから、これからはSI単位という言葉を使って説明していくことにします。

(新)計量法が施行されると使用できる単位はSI単位だけに限定され、それ以外のすべての単位(非SI単位)を廃止することにしました。この変化を、表1で見てみましょう。商品売買において、(旧)計量法の時代は上の欄の重力単位と下の欄の単位の両方の使用が認められていましたが、(新)計量法の時代になると下の欄のSI単位だけしか使用がを認められなくなりました。すると、この変化を念頭に置いたとき皆さんは、商品売買は、何の単位で行われることになると思いますか?

(新)計量法のSI単位では、重さの単位はN(ニュートン)しかありませんが、N(ニュートン)は、商品取引には不適な単位でしたので「重さ」で商品取引をすることはできません。表1を見ると残っているのは、難解な「質量」概念しかありません。
こうして見ると、実は(新)計量法とは、市民に「重さ」で商品売買することを禁止し、「質量」概念で商品取引をすることを義務化するという、歴史的一大転換をもたらす法律だったことが明らかになってきます。これが市民にとっての(新)計量法の意味です。しかし、なぜか経産省もマスコミもこのことについて沈黙し、国民に向かってこの説明がおこなわれませんでした。それでは経産省は、この(新)計量法施行を前にして市民のためにどんな準備と対応を行ったのか、それを次回に見てみましょう。

(注2)N(ニュートン)の単位が商品売買に使えない理由

質量が同じでも物体の重さは、地球の場所によって変化します。同じ大根でも東京より沖縄の方が重さが小さくなります。同じ質量の大根の重さをニュートン秤で測定するとこうした変化を検出するので、その値から場所に応じて質量の大きさを求める計算が必要になります。いちいち計算をしなくてもよいようにするには秤に2重目盛りが必要になり、実用性に欠けることになります。そこで日本各地で重さの変化することを考慮して、各地域ごとに、1kgの質量(標準体)を使って重さ1kg重の力を表示する秤を別々に作ります。こうして地域内で質量と重さの食い違い(誤差)を小さくします。(新)計量法では目盛板に、本当は重さを測定している目盛りですが、それを質量と近似してkgと表示します。

次回、なぜ起きる、「重量、重さ、質量」の混乱(その4)は10月25日アップロードの予定。

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なぜ起きる、「重さ・重量・質量」の混乱(その2)

By   2015年10月10日

1.Kgの記号の意味に自信がない中・高校生

新たに進行し始めたこうした混乱の原因を明らかにするため、2016年、2017年と2年間にわたり「kgの意味は何?」というテーマでアンケート調査をしました。調査は2つの進学校の高校2年生229名(文理混合)を対象に行いました。教材の「到達度」を測る調査ならば、分析方法がすでに定式化されているといってよいでしょうが、「混乱」状態を明らかにする調査の場合はそう簡単にはいきません。到達度が低いことをもって「混乱」状態と安易に見なしがちですが、今起きている現象はそれでは明らかになりません。

たとえば、この調査データでは、混乱をかいくぐって正答を選択している生徒が、コメントでその答に全く納得していないという状態にあることを述べているからです1)。生徒のコメント数が少ないため、必ずしも十分とは言えませんが、採取したデータと生徒のコメントをつきあわせながらその混乱の位相を明らかにしていきたいと思います。

また、この「kgの意味」の混乱が何故発生したのか、その社会的背景については、『計量法改正がもたらした「重さ・重量・質量」の混乱」』2で詳述したのでそれをご覧下さい。アンケートの内容の全体に関心がある方は同論文の末尾に掲載してあるのでそれをご覧下さい。アンケートの内容は(問1)~(問4)までありますが、本稿では(問1)と(問4)に論点を絞り分析していきます。

(1)(問1kgの意味の調査結果の概要

(問1ー1)と(問1ー2)の回答結果を「自信の有無」を考慮せず単純集計すると、図1、図2のようになります。

図1をみると、回答分布は②質量(100名、44%)、③重さ(31%、71名)、④重量(24名、11%)、⑥重複回答(26名、11%)ですが、同じ意味の「③重さと④重量」を合算すると(95名、42%)になり、ほぼ②質量の100名と同じ位の人数になります。従って、「kgの意味」の回答分布は、(正答):「質量」(100名、44%)、(誤答):「重さ+重量」(95名、42%)と、残りの(誤答):「重複回答」(26名、約10%)とおおまかに3つの部分から構成されていると言えます。「重複回答」とは、kgの意味を「質量」、「重さ」、「重量」などをみな同じ意味だ、とみなしている誤答です。

次に図2をみると、この回答をした生徒229名中の75%(171名)の生徒が回答に「自信なし」と答え、「自信あり」という生徒はわずか25%(58人)しかいないことが目を引きます。

「kg」という記号は、かれらが小学校入学以前から、毎日の生活の中で使い続けてきた単位です。その「kgの意味」を、高校生になっても、全体の4分の3の生徒が自信をもって答えられないというのは、驚くべき現象といってよいでしょう。

この結果は個人の勉強不足や努力不足が原因としてかたづけられるものではなく、何らかの社会制度上の問題が錯乱子として彼らに作用し、混乱をもたらしつづけているためと考えるのが妥当だと思います。

(2)「自信の有無」から見た「kgの意味」

それでは「自信がある」と答えた生徒は、kgの意味の混乱からまぬがれ、「自信がない」と答えた生徒はその混乱の渦中にいるのだろうか、ということが疑問になります。また、この2つのグループは何を契機に互いに逆の方向へ分化していったのだろうか。こうした疑問を明らかにするために、「自信の有無」で「kgの意味」の回答を場合分けしてみたのが図3と図4です(クロス集計)。

(3)「自信あり」と「自信なし」グループの「kgの意味」

先ず、「自信あり」グループは、「kgの意味」をどう答えているのか、図3のグラフでみてみましょう。

「自信あり」グループは図2で見たように調査全体(229名)の約4分の1(58人)という少数グループです。その58名中の62%(36名)の生徒が「質量」と正答をしています。その次は「重さ」や「重量」を選択し、誤答した生徒が36%(15名)(ただし、重量の選択者は0名です。)、そして「重複回答」の誤答を選択した生徒が8%(5名)と続きます。

「自信なし」グループの「kgの意味」の集計結果は図4の通りです。分布は「自信あり」と多少異なります。 「自信なし」グループは調査対象全体の約4分の3(171名)を占める多数グループです。その中で最も多い回答は正答の「質量」37%(64人)です。絶対数は別として、その正答比率は「自信あり」グループ62%の半分近くしかありません。自信有無と正答者の数は、相関関係ありと予想されます。次は誤答「重さ」35%(60人)に加え「重量」と誤答したのが13%(24人)になります。「自信あり」グループでは「重量」が0名でしたが、「自信なし」グループでは「重量」を選択する生徒が13%(24名)もいるこの違いは目をひきます(あとで議論をします)。

こうしてみると「自信あり」グループでは図3のように(正答)「質量」(62%)と(誤答)「重さ」(26%)で全体の大部分を占めています。「重量」は0%でした。他方の「自信なし」グループでは、(誤答)「重さ」(35%)と「重量」(14%)で半数を占め、その次が正答「質量」(37%)、「重複回答」(10%)が続きます。それぞればらけて、多様な誤答行動をしている大集団といってもよいと思います。

(4)2つのグループに分離した原因

この少数集団の「自信あり」グループの「質量」と正答した36名(62%)は、一体どのようにして「自信」を獲得したのだろうか。「自信なし」グループと同じ授業を受け、同じ受験を体験した生徒達が、何を契機に「自信あり」と「自信なし」に分かれ図3と図4のように異なった「kg」の意味の解釈をしていくようになったのかは、とても興味深い点です。

そのヒントになるものとして「自信あり」グループで正答「質量」を選択した一人の生徒がアンケートの中で以下のようなコメントを残しているのでそれをみてみましょう。

「意外と分かっていなかったのでーー」という理由は、(問1ー1)では正答をしたが(問4)でミスをしているからです。(その詳細は(問4)の分析の折に再びふれますが、ここでは、この生徒が「もう一度語句の定義を押さえたいと思いました。確認になって良かった。」と言っている点に注目してみました。この生徒の定義の確認の場所は、恐らく教科書やそれに準じた参考書だろうと思います。中学・高校理科や物理の教科書、参考書では、当然のことながら国際標準のSI単位系で「kg」を「質量」の意味で説明し、「重さ」や「重量」は力の意味でその単位はニュートンと説明をしています。従って「自信あり」グループで「質量」を選択した生徒の自信のよりどころは、教科書・参考書などによるものといってよいでしょう。

他方、回答に多様性をもった「自信なし」グループは図4のグラフの中で教科書通りに「②質量(正答)」を選んだグループ64名も、教科書とは異なった「③重さ」を選んだ53名も,「④重量」を選んだ24名のグループも、ためらい、自信がなくそれぞれの選択肢を選んでいるものと思います。すでに述べたように今回の調査対象とした生徒は高校受験をかなりの好成績で通過した集団です。こうした生徒が教科書の記述内容を全く失念してしまっていたり、教科書の記述を否定的にとらえ始めているわけでもありません。彼らは教科書の内容を受け入れ、さらに生活体験の中で当たり前に流通している情報も正しいハズと素直に受けいれ、その結果kgの意味に論理的整合性がとれなくなり、「自信」を持てず困惑しつつ回答をしていると思います。

すると、教科書の知識と異なり、これだけ大きな社会的影響力を彼らに及ぼし「自信なし」に追いやっている生活体験からの情報源とは、一体何なのだろうか、ということが次の問題になります。

2.「経産省・用語法」

 (1)「経産省・用語法」と「物理用語」の矛盾

ここで、理科の教科書に匹敵する、或いはそれよりはるかに大きな社会的影響を及ぼしているのは、経産省が中心となって推進している「質量や重さや重量」などについての特異な用語法が原因であると仮定して今までの現象を説明してみましょう。通常の理科(物理)の授業では「物理用語」に従って「重さ、重量」の用語を「weight」の意味または「重力、力」の意味として授業を展開しています。

それに対して、1992年の計量法改正前後から経産省は「重さ、重量(weight)」の用語の意味を「質量(mass)」という意味で使い始めます。経産省は「重さ、重量、体重」はもともと「質量(mass)」の意味であると主張し、SI単位系(国際単位系)とも異なった特異な用語法を作りだし、これを国内で公用語のように使い始めました。これを以下では「経産省・用語法」と呼ぶことにします。

この用語法は、経産省を発信源として産総研、国土交通省、総務省やその傘下の郵便事業、NHK、全国の各新聞などに大きな影響を及ぼし、われわれの生活の中に着実に入り込んできつつあります。例えば総務省管轄下の日本郵便(郵便局)で使っている郵便物の「重さ、重量」という言葉は「国際単位系」や「物理用語」のように「力:N(ニュートン)」の意味ではなく「質量:kg」の意味で使っています。NHKも以前は「質量:kg」と報道していたのですが、計量法改正後「質量kg」のことを「重さkg」と報道するようになり、「重さ」と言う言葉の意味を「力、重力」の意味から「質量(mass)」の意味に変容させ、「経産省・用語法」にシフトしています。

全国紙の新聞は、経産省・用語法に忠実な新聞から、それに慎重なものまで様々です。そんな中で、最近朝日新聞が突然、経産省・用語法のトップランナーにとびだすハプニングがありました。それは物理学者・梶田氏のノーベル賞・授賞記事において朝日新聞が1面トップの大見出しを「ニュートリノに重さを発見」と報道したことです。これに対して他のすべての新聞のトップ見出しは、「ニュートリノに質量を発見」でした。この科学的にビッグな事件の報道では、ほとんどの新聞が国際標準のSI単位である「物理用語」で報道する中、朝日新聞1社だけが「経産省・用語法」で1面トップの見出しを飾りました。JAPAN TIMESなど外国新聞も、勿論「weight」(重さ)ではなく「mass」(質量)で報道しています。計量法が完全実施されてから18年を経過しても、各新聞社の足並みは同じではありません。最近何かとバッシングされることが多い朝日新聞のように報道スタンスに大きな動揺をみせる新聞社もあり様々です。

こうした現状の中で理科の公教育を受けている生徒たちは、日常生活において矛盾する2つの用語法に取り囲まれて混乱し、kgの意味に自信を持って答えられなくなることは至極当然のことです。生徒と同様に、一般市民も実はこの混乱の渦中にあるのですが、中・高校生と違って一般市民には「物理用語」で答えなければならないテストというものがないので矛盾や混乱をあいまいなままに放置しておくことができます。ここで念のために生徒や市民が直面している矛盾する2つの用語法をあらためて整理すると以下のようになります。

理科(物理)を学ぶ生徒達は商品売買の生活のなかで使われている「重さ=重量(=体重)」=質量(mass)」という「経産省・用語法」に接するのはほぼ毎日です。他方、それと同じ言葉を公教育で理科や物理などの教師が「物理用語」に従って「重さ、重量(weight):N、kg重」や「質量(mass):kg」の定義の違いを教えるのは年間授業時間のほとんど一瞬というほどの短い時間です。現実の生徒たちは、「理科室」と「日常生活」という言葉の意味が異なる空間を往復し、矛盾するこの2つの用語法を一つの知性の中に併存させていかなければなりません。これがいまの生徒達がおかれている現状です。

(2)「経産省・用語法」に振り回される「重複回答者」

「経産省・用語法」の存在がわかったところで、ここで、現実の(問1ー1)のアンケートのデータに戻りましょう。

経産省・用語法に強く影響を受けたと思われる「重複回答者」は26名います。しかし、この重複回答者でコメントを残してくれた人は残念ながら一人もいませんでした。このアンケートでコメントを残してくれた生徒は総計19名いますが、その殆どが「わからない」、「難しい」という主旨のコメントです。この中で「重複回答者」ではないのですが、コメントの内容からあきらかに「経産省・用語法」について言及していると推測できるコメントが一つあるのでその事例を紹介します。

この生徒は、(問1ー1)でkgの意味を「重さ」と誤答し、(問4)では「よく分からない。」と回答しながら「全部同じ意味だと思っていました。」とコメントしています。 この生徒が全部同じ意味と思っていたのなら、(問1ー1)では「重さ」ではなく「重複回答」を選択するはずなのでは?と通常は思います。ところが、よく考えてみるとそうでない場合があるようです。この生徒は当初「重さ」=「重量」=「質量」と思っていて、どれでも同じ中の一つの「重さ」を当然のこととして選択していたと思われます。そしてアンケートに答えていく内にその考えが間違っていることに気づき、「全部同じだと思っていました。」というコメントを書いたのだと思います。そういう観点から今までのデータを振り返ってみると、「重さ」や「重量」と単独の回答している中にも実は相当数の隠れ「重複回答者」が潜んでいる可能性が考えられます。

表2は「重複回答」者から見たkgの意味は「質量」=「重さ」=「重量」、またはそれに準じた見方の一覧と選択者の人数です。これを選択した生徒は表1に示した「経産省・用語法」の影響をかなり強く受けて、「kgの意味」の混乱の渦中にいる生徒たちです。経産省は省内に設置した「SI単位等普及推進委員会」において「kg」という記号さえ使っていれば、「重さ」=「重量」=「体重」(=「質量」)など対応する用語はどれでもよいという方針をとったので、その用語

法が日本中に流通していきました。その結果が大きく表2の高校生の調査データに反映されているとみてよいでしょう。

(注)①力=③重さ(4名)や③重さ=④重量(7名) の重複回答は正しい意味

なので、重複回答から除外し、③重さと読みかえてカウントしている。

「経産省・用語法」に従うと、健康診断での「体重」は実は「質量:kg」の意味であり、自動車の車体計量所での「車の重量」も実は「質量:kg」の意味であり、郵便局の料金表に表示している小包の「重量」も「質量:kg」の意味と読み解かなければならなりません。さらにマスコミやネットを通じて絶え間なくわれわれの生活にこうした用語法での情報が流れ込んできます。言葉に敏感な若い世代はそうした用語法が当たり前と先入観念をもたずにその影響をどんどん受けいれていきます。

こうした「経産省・用語法」に影響をうけ、重複回答した生徒たちが「自信あり、なし」を含めて26名いました。その内訳は「自信あり」グループが19%(5名/26名)、「自信なし」グループが81%(21名/26名)です。さらに「自信なし」グループが経産省・用語法によって特に強い影響を受け重複回答しているだけでなく、コメントHのケースから「重さ、重量」などの選択者にも相当の重複回答者の生徒が含まれていると推測して良いことがわかりました。つまり「自信あり」グループは「教科書や参考書」に支えられ、「自信なし」グループは「経産省・用語法」に強く影響されてこの2つのグループに分化していったものと思われます。

 3.生活から遊離する理科(物理)

1992年に経産省によって推進された計量法の改正(完全実施は1999年)は、教育を受けている子供達のみならず実は国民全体に対しても非常に大きな影響を及ぼすものでした。しかし、その変化の核心については、大手マスコミが報道統制にでもあったかのように沈黙してしまい、国民にはその核心部分は報道されなかったので、その内容を改めてここで確認しましょう。

これは「SI単位」以外の使用を認めないシステムなので「全面SI化」とも呼んでいます。「全面SI化」は、最先端技術にとっては最適の単位系のシステムと言ってよいのですが、商品売買や生活者にとっては最悪の単位系のシステムと言って良いでしょう。なぜなら「全面SI化」すると商品を最も分かりやすい「重さや重量」で取引することができなくなるからです。その理由は「SI単位」では商品売買に使える「重さの単位」が欠落しているからです。今まで毎日使っていた商品の重さの単位「kg重」の代わりがSI単位系には存在しないので、商品売買に使う重さの世界にポッカリと穴があき空白が生じてしまいます。より端的に言えば、SI単位系の「重さ、力」の単位はニュートンですが、ニュートンには法定計量単位としての能力がないのです。従って、「全面SI化」をすると、必然的に「重さ、重量」の代わりに今度は「質量」概念で商品売買しなければならなくなるのです。 この法定計量単位の重大な変化について経産省、文科省、マスコミ、物理学や関連する教育学会は全く沈黙してしまいました。

こうした点を検討してみると1992年の改正計量法は、商品売買の歴史上かつてないほどのハイレベルな一大変化だったことがわかってくると思います。しかし、担当官庁の経産省はこの超ハイレベルな改正内容をはじめから国民に正面から告知するつもりはなかったと思われます。その理由は全国民が「質量」概念を理解し、それを道具として毎日の商品売買の手段としてこれを使いこなすことは不可能と判断したからでしょう。そこで、経産省はその法律の推進のために、「質量(mass)」と言う言葉の使用をできるだけ回避し、「重さ、重量、体重」などの言葉で置きかえる言葉の擬装をはじめています。さらに「kg」に一定の言葉を規定しないで「kg」という記号そのものを普及推進する方針をとりました。

経産省のこうした方針は、1992年頃からわれわれの生活の中に徐々に流し込まれていきます。そして計量法の改正にともなう異変が中学校において影響を及ぼしはじめたのは、2002年に改訂された教科書で生徒達が学び始めたときからです。それに呼応するように中・高校では、重さの単位「kg重」が教科書のメインストリートから消えていきました。「法定計量単位」から「重力単位」を廃止しても、商品売買上の取引や証明と無関係な研究・教育活動においては、計量法の規制の対象とならないはずでした。しかし、文科省は理科(物理)の教科書において「重さ:kg重」の単位を原則廃止し、そのかわりに天上から隕石でも落下してくるように「力:ニュートンの単位」を中学校理科に導入させました。文科省は、経産省の産業政策と全面的に同調し中・高校の教育においてもSI単位以外許容しない「全面SI化」の路線を2002年以降導入したわけです

こうして生徒達は2002年以降、一方の生活においては「経産省・用語法」(「重さ」=「重量」=「体重」=「質量」)に取り囲まれ、他方の理科の公教育においては「全面SI化」され(「重さ」=「重量」=「力」)で教育されるという矛盾した2つの言葉の定義に直面することになりました。

そして公教育の理科では「重さ」という生活実感をもった物理量が不在のところで、「質量」概念を学ばなければならなくなります。いままでの理科教育は、科学の歴史的発展過程のように、生活実感のある「重さ・重量」をベースにしてそこから「質量」という抽象的概念形成の階段をたどっていく学習展開が可能でしたが、2002年以降はこの教育方法が、困難になってしまいました。文科省の方針によって理科教育の中から「重さ・重量」の梯子が取り外されてしまい、突然「質量」の理解までジャンプすることを要求されるようになったからです。例えば、運動方程式を学ぶ前に重さを計算するためには、運動方程式の結論である次の式(重さ=質量×重力加速度 N) を丸暗記しなければならなくなってしまいました。(または、何の説明もなく、重さ≒質量×10とよく丸暗記させています。

「kgの意味」について、「自信なし」と答えた調査全体の75%(171名/229名)の生徒の多くは、多かれ少なかれこうした「経産省・用語法」から影響をうけ、教科書物理と矛盾におちいり、論理的整合性がとれない中で漂流している生徒たちです。初めて理科で物理を学んだ中学2年生の頃は、全員が混乱し「自信なし」集団だったのではないかと思います。その中から「理科」と「生活体験」を切り離し「学校理科(物理)」だけに注目することによって「自信あり」グループの一群が分化していったのではないかと推測されます。

このことは次の「重量」という用語の使用頻度が「自信あり」グループと「自信なし」グループで鮮明に異なっている事からも推測できます。「経産省・用語法」が使用される生活体験の中では「重量」(=質量)という用語が多用されていますが、「教科書物理」ではまったくといって良いほど「重量」(=力)という用語が使われていません。こうした事情を反映して、経産省用語法に強く影響をうけた「自信なし」グループはkgの意味を「重量」という意味に受け取った生徒が24名(図4)もいたのに対して、学校物理に傾斜する「自信あり」グループにおいてはkgの意味を「重量」と言う意味に使う生徒が一人もいませんでした。

理科や物理の教科書は経産省の「全面SI化」政策に追随して、改訂されていきましたが、この方針によって「kg重」から「N(ニュートン)」に改訂された理科の教科書を見た当時の中学校の教師は、「理科が生活から遊離していく。」とブログで驚きの心情を述べていました3。このコメントのように今度は「理科」を学ぶ生徒たちが「N(ニュートン)」という生活とまったく無縁な力の単位を受け入れ、理科(物理)がそもそも生活から遊離した別な世界の存在として受け止め始めます。つまり「自信あり」グループは、理科(物理)から生活を分離することによってあやうい「自信」を獲得し始めたグループとも言うことができます。

他方、「自信なし」グループは、「生活」(経産省・用語法)と公教育の「理科」(SI単位系)との間で混乱し、「経産省・用語法」を駆使しても全く論理的に整理できないためとても複雑な反応をしています。恐らく、生徒にとって「理科」は「生活体験」の中にあり、それと矛盾する事自体が信じられないという健全な科学観を持っており、それが逆に「自信なし」グループを混乱に長く引きとどめているのではないかとも思われます。

(前半:終わり)

 

 

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レントゲンとX線のリスク意識(最終回)改訂版

By   2014年5月20日

レントゲンとX線のリスク意識(最終回)

9.レントゲンの無言の告白

レントゲンは、科学的に実証されていないことについての発言には、非常に慎重である。例えば、ジャーナリストからX線についてのこれからの見通しの発言を求められても、レントゲンは、「科学者は、予言者ではない。」という理由から拒絶の態度をよく示している。
レントゲンが生きた19世紀末の科学者は、まだ中世に見られる神の書記官としての存在を色濃く引きずっている。現象の全貌を発掘し、明らかになった事実を体系的に整理し神殿(学会、図書館)に奉納する。この仕事が科学者として最も神聖で最優先すべきものと考えられていた。「世俗」と一線を画す「無謬性」が科学者・レントゲンの行動原理そのものであっただろう。では、「科学的検証」を経ていない「X線の防護」について、レントゲンはそれをどう社会に向かって語るのだろうか。

X線の研究を始める前のレントゲンは、「科学の無謬性」と「科学者の倫理性」の間に予定調和が約束されていると信じて科学者の小道を誠実に歩いている。レントゲンは物理学の巨匠クントに才能を見いだされ、物理学の研究に打ち込み、科学者として幸福で満ち足りた日々を送っていたが、X線の発見以来だんだん彼の学者人生の歯車がきしみ始める。

レントゲンはX線の存在を科学的に追求する過程で、火傷を負いX線が人間を傷つけることを体験する。そして、より高性能のX線発生装置を開発して行くにつれ、X線障害をさらに深刻化していく未来が、レントゲンからはあらわに見えてくる。「科学の無謬性」にもとづいた「X線の発見」は、科学者・レントゲンにとって輝かしい業績となったが、今度はその「科学の無謬性」が「X線防護」についてレントゲンの口をふさぐことになった。

1896年1月1日のX線発表後、レントゲンは今まで体験してこなかったジレンマに悩まされ始めただろう。洪水のようにやってくるX線の賛辞と非難や嫉妬、予期せぬ怪しい来客、興味本位にX線写真を取り上げるジャーナリズム。これらは、いずれも徐々に通り過ぎる一過性の嵐のようなものだが、レントゲンの内部には日を追うごとに深く入り込んでくるジレンマの存在が成長しつつあったと思われる。それはX線によって火傷を体験し、トタン小屋によってX線からわが身を防護し、なんとか実験をのりきったレントゲンが、今度はX線に無防備な研究者、大衆が被ばくするのを何の策もなく見つめなければならなくなったからである。これは、驟雨のように一過性で通り過ぎることではない。

X線発表後のレントゲンのもとには、X線の追試に成功した報告が次々に伝えられ、学者としての信頼性が日に日に高まっていくのに、彼は不機嫌な毎日を送っている。X線の記事が大衆雑誌に掲載されるのを見るにつけ、レントゲンは不快感をあらわに示し、「素人の人と広く議論をすべきでない」(『レントゲンの生涯』W.Robert Nitske , 考古堂、P19 )という科学者としての持論を吐露している。

そして X線を公表した約1ヶ月後、意を決っしたかのようにレントゲンは大衆雑誌記者ダムからのインタビューを受け入れる。「トタン小屋」を公開し、どのようにX線の実験が行われたかを明らかにする行動を起こしている。実験物理のプロであるレントゲンは、ひやりとする被爆体験をしながらなんとかX線障害をかわしたものの、他方であまりにX線の被ばくに無防備な科学者・大衆を見るにつけ、それを見過ごすことができずに自分に苛立っている。あるいは、「X線の負の発見者」でもある自分に対して、「社会的責任?」というものを予期せず発見して、躊躇しているようにも見える。
トタン小屋の存在の公開には、どこかそうしたやむにやまれずとった行動の風情がただよい、この公開を通して、 レントゲンは「無言の告白」をしているように見えてくる。<わたしは、こうしてX線からわが身を守りました。>ーーーと。

10.創造的知性と負の遺産

レントゲンのトタン小屋の公開記事は、McClure’s Magazine,1896年4月発行の雑誌に掲載されたが、その記事に対して研究者や大衆の反応はどうだったのだろうか。X線の公表から3ヶ月になろうとするこの頃、高性能なフォーカス管はまだ本格的に出回っていないが、クルックス管による火傷や潰瘍の発症者は確実に出始めている時期である。雑誌発行は、タイムリーな時期であるのだが、レントゲンのトタン小屋に対する市民・研究者からの反応は、文献でみるかぎり何も起きていない。
少なくとも、インタビューの記事を読んで、X線の実験のたびに「トタン小屋」に逃げ込んでいたレントゲンに対して「臆病者!」「弱虫!」という非難は投げつけられなかった。大半の大衆は、恐らく「トタン小屋」の裏の意味が理解できなかっただろう。しかし、X線関連の研究者、放電管の製作職人、モデルなどでX線障害をすでに発症した人々は、恐ろしいX線から身を守ってくれる「トタン小屋」の象徴的意味をはっきりと理解しただろう。「レントゲンは、トタン小屋に守られていたのか!」と。

この頃は、X線障害者もX線に不安を抱く研究者もまだ圧倒的に少数で、しかも社会はあげてまだ「神秘的なX線」に浮かれている。社会の圧倒的多数は、このブームに水を差すようなレントゲンの「トタン小屋」に関心がなかった。もっと率直に言えば、X線障害のことなど今は、知りたくなかったのかもしれない。

ダムとのインタビューの後もレントゲンは非難されるどころか、逆に名声は高まる一方でひっきりなしに叙勲や名誉会員や名誉教授の知らせが舞い込むようになる。レントゲンは栄誉の知らせを慇懃に受けるがそれに対して返礼に出かけることも講演をすることもしない。万事がこんな調子で社会とレントゲンの溝は深まるばかりである。X線の不思議な能力に目を奪われているジャーナリストや科学者からは、感激を分かち合おうとしないレントゲンのふるまいをみるにつけ、彼がだんだんKYな性格で人間嫌いな人物と見なされてくる。(また、ほとんどの「レントゲン伝」でもそのように描かれてしまっている。)

レントゲンは、X線に関する最後の論文「第3報」を1年間かけてまとめ1897年3月10日にプロイセン科学アカデミーに投稿している。彼はここで1年半にわたるX線研究だけでなく研究活動そのものにも終止符を打っている。その後、学生の教育、後進の育成、学内の運営などの実務に専念し、レントゲン自身が手におえないほどに膨張した「科学者という虚構」から脱皮をはじめている。

こうして1年半足らずの期間に体験したレントゲンのX線をめぐる「創造的知性」と「負の遺産」のジレンマの話は終わるが、21世紀の原発事故をめぐる科学者においてこの種の問題はさらに深刻化して継承されているように見える。それは、「創造的知性の側に立つ人」と「負の遺産の側に立つ人」の間でさらに分業が徹底され、多くの科学者はより洗練された虚構に自己を同一化し、一個人が抱えていた倫理的ジレンマの所在をしばしば見失ってしまっているからだ。そしてその分だけ科学者という職業が、どこか無責任さを秘めた職業になりつつある。

*「レントゲンとX線のリスク意識」の連載記事は、途中工事などで中断しましたが、これで一応の完成になりました。

無責任さを秘めることなく科学者として生きていけない時代がやってきている。そのことに最初に向き合うことになったレントゲンの生涯は、現在のわれわれに投げかけるところが多々あるのではないかと思います。皆様の感想やつぶやきをお寄せください。

参考文献

・『レントゲンの生涯』W.Robert Nitske , 考古堂
・『孤高の科学者W.C.レントゲン』山崎岐男、医療科学社、1995
・『被曝の世紀』キャサリン・コーフィールド、朝日新聞社、
・『レントゲンとX線の発見』青柳泰司,恒星社厚生閣、2000
・『レントゲン』F.L.ネーエル、東京天然社、1943
・『レントゲン先生の生涯』新聞月報社、瀬木嘉一、1966
・『X線からクォークまで』エミリオ・セグレ、みすず書房、1982
・『医用X線装置発達史』青柳泰司
・『結晶とX線』H.S.Lipson、共立出版、1976
・『レントゲンの生涯、X線発見の栄光と影』山崎岐男、富士書院、1986
・ ウィキペディア、放射線障害の歴史、 http://jawikipedia.org/index.php?title
・『放射線と健康』館野之男、岩波新書、2001
・「新しい種類の線について(第1報)」W.C.レントゲン、1895
・「新しい線について(第2報)」W.C.レントゲン、1896
・「X線の性質についての観察の続き(第3報)」W.C.レントゲン、1897                                                ・McCulture’s Mgazine Vol16,No5,April,1896

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