下の文字をクリックすると、「kgの意味に混乱する高校生の事例調査」(JーSTAGE)の論文にリンクします。
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Author Archives: mori
NEW「質量も重さも、わけがわからない。」中学生の投稿よりv
NEW「質量も重さも、わけがわからない。」中学生の投稿よりv
旧稿に調査データを加えて大幅に加筆しました。
🔲 3年ほど前、理科の受験勉強のサイトで「質量も、重さもわけがわからない!」という生徒の悲鳴のような投稿を偶然見つけました。しばらくの間、WEB上に掲載されたので、これを見た方が多数いらっしゃるのではないかとも思います。
私の教師の体験では、「重さはわかるけど、質量はわからない!」というのが、多くの生徒の反応でした。ところが、「質量」どころか毎日使っている「重さ」までわけがわからなくなったーーという声を、はじめて聞きました。さらに、このころ「1kgは何ニュートンですか?」といういままで聞いたことがなかった奇妙な質問も受験相談のサイトで頻繁に見られるようになっていました。
🔲 「質量も重さもわけがわからない」と声をあげた中学生は、不勉強な生徒ではないと思います。不勉強な生徒は、わざわざ自分が傷つきかねない主張の投稿はしません。無言でその問題に背をむけて立ち去るでしょう。声をあげた生徒は、いま科学の考え方や理解力が身につきはじめた伸び盛りの生徒ではないかと思います。科学の考え方がよくわかりはじめたにもかかわらず、「質量と重さ」の意味にまったく納得がいかなくなったのでしょう。この発言は、実は中学生だけでなく高校生、大学生、クレーンなどの資格取得のために物理を真摯に再学習している社会人などにもみられ、氷山の水面下に沈む巨大な存在ではないかと思います。
🔲こうしたことが起きる原因は、「kgの意味」を経産省が「教育や科学技術」での場面と「社会生活」での場面とで矛盾した説明を始めたからではないかと推測しています。その2つの矛盾した情報のながれは以下のような2ルートで生徒に到達しています。
①[経産省ー文科省ルート]:経産省→文科省→理科教科書の改訂(2002年)→理科の学習者
(単位のSI化:「質量:kg」と「重さ:N、kgw」を区別)
②[経産省―総務省ルート]:経産省→総務省、国交省、マスコミ(1992年-以降)→全国民
(kgの意味の混同化:質量=重さ=重量=荷重など)
①の「経産省―文科省」ルートでは、「kgの意味は質量。Nの意味は重さや重量。」と説明しています。これは計量法の改正の内容に沿った正しい説明です。②の「経産省-総務省」ルートなどでは「kgの意味は、質量=重さ=重量=荷重=・・・」(質量と重さの混同)という、計量法改正内容のみならず科学用語の意味とも矛盾したkgの意味の使用方法です。(こうした2つの矛盾した政策を以下では経産省の「ダブルスタンダード」政策と呼んでいきます)。
🔲 何故「経産省」はこうした2枚舌と言われかねない「ダブルスタンダード」政策を始めたのでしょうか。
その理由は、1992年に改正された「計量法」に端を発していると思われます。計量法の改正によって毎日の商品売買において使われていた「重さ:kg重」の単位が使用禁止にされ、私たちは、毎日の商品売買を「質量:kg」で行うことを法律で義務づけられるようになりました。しかし、経産省はこの事実を国民に向かって誠実に説明する意思は皆無でした。逆にそのことが国民に分からないようにするために官僚得意の煙に巻く語法で、新聞へのコメントで一般の国民には「ほとんど影響はない」、この影響は産業界だけと発表していました。(その部分の詳細は、『計量法改正がもたらした「重さ・重量・質量」の混乱』(物理教育、 65-1, 2017,p22を参照。)
🔲 多分、その理由は国民全員が「質量」を理解することは不可能と判断したからでしょう。そして「質量」という言葉を「重さや重量など」におきかえ擬装するために次のことをはじめます。①②のような「科学や教育」の場面と一般国民の「社会生活」の場面で矛盾する2通りの説明を始めました。①の「経産省→文科省」ルートにおいては、「質量」と「重さ」の意味を正しく区別した内容は理科の教科書を通して明示されました。他方の②「経産省→総務省」ルートなどでは、郵便局やNHKなどマスコミを通して国民に「重さと質量を混用する政策」が流していきました。その内容は「kg」の意味を一定の意味で規定しないと述べ、kgの意味を「質量=重さ=重量=荷重など」どれでもよいとする、それらの意味を混同し、促進する内容でした。
🔲小学校では(幼児教育を考慮して?)「重さ:kg」と誤った内容が教えられています。重さの記号は「kgwやkg重」で中学校で教えられていますが、多くの批判があるにも拘わらず、この正しい記号は小学校では使用されません。このため、生徒は中学生になると、「kg」の意味について「ちゃぶ台返し」のような根本的な修正が必要になっています。幼児期に間違った意味を教えられそれをうけいれてしまうと、その意味を修正するのはとても大変な事です。
修正内容①「重さ:kg」は正しくは「質量:kg」です。(「重さ」のことばの意味の修正)
修正内容②「重さ:kg」は正しくは「重さ:kg重、kgw」(kgの記号の修正)
2001年まではこうした「重さ:kg」という小学校で教えた内容の修正が中学校で行われていました。修正する中学校の先生も大変ですが、それ以上に小学校の先生は不幸です。中学校で間違いとして修正されることがみすみす分かっていながら、それを教えなければならないからです。こうしたことから小学校の先生は理科に自信を失い、理科が苦手になりますが、他方でそうした小学校の先生が理科離れの原因だという批判にさらされて立つ瀬がありません。
🔲2002年に計量法の影響で学習指改訂され中学校理科にやってきた3つめの変化は、③「重さ:kg重」を廃止して未体験の「重さ:N(ニュートン)」の導入です。今度は、小学校の修正内容の②が以下のように修正することが必要になりました。
修正内容③「重さ:kg」は正しくは「重さ:N」
(kgの記号の修正)
「kg重」は生活に密着し、中学の(静)力学によく対応していた単位でしたが、産業の国際化というグローバリズムの影響をうけて、「重さ:kg重」を廃止し、そのかわりに「力、重さ」の単位がN(ニュートン)」になりました。
🔲中学校の先生は、生活感のない単位の「N」の登場で、理科からみじかさや生活観がなくなるため危機感をいだいていました。これが「経産省―文科省」ルートでのSI化にともない中学校理科にやってきた教科書の修正内容です。高校も中学校と同様kg重の単位が消えました。さらに、最も大きな変化がります。④である商品売買の単位が、「重さ:kg重」廃止から「質量:kg」に変更になりました。しかし、これは教科書で全く触れられませんでした。生徒はこのことを社会生活のなかで学ばなければならなくなりました。このように中学校の力学では小学校の内容が①~④と激変し、生徒に大きな変更や修正を要求することになりました。生徒が小学校から中学校に移行するとともに、生徒の物理離れ、理科好きの生徒の減少が力学において顕著に起きていることが多くの調査から分かってきました(2009、加藤巡一など)。
🔲これに対して、理科教育に関係のない国民は、「経産省―総務省」ルートの混用政策の情報だけしか受け取りません。例えば、総務省傘下の郵便局ではパンフレットに手荷物などの「質量:kg」ではなく「重さや重量:kg」と表記されています。国土交通省では法令の中で「車体重量」が「kg」で表記されています。NHKで以前は「質量:kg」で報道していたのが、「重さ:kg」に変化しました。梶田氏のノーベル賞受賞記事では、朝日新聞の一面トップの見出しが「ニュートリノの重さ発見」でした。3面では「重さ(質量)」などとあいまいな苦しい表記をして揺れています。このように国民にむけては、すべて「質量と重さ」を混同する政策が推進されています。
🔲中・高校生は、教室で「質量はkg、重さはN」という説明をうけ、下校した「社会生活」の場ではこれと矛盾する「kg:質量=重さ=重量=・・・」の情報にさらされつづけます。こうした経産省のダブルスタンダード政策によって「理科の学習者」だけが矛盾に直面し、ほとんどの国民はこれに気づきません。ただ、これには例外があります。それは「質量と重さ」に混乱しているわが子を見た保護者が、理科の教科書を手にとって初めてこの現象に直面する場合です。しかし、父母たちは子供の教科書を読んでも何故「kgが重さでなく、質量」であり「重さがN」なのかが理解できません。官僚の詭弁で国民に「さほど影響はない。」と明言し、計量法のもっとも大きな変化をスルーし、マスコミも沈黙してしまった影響です。何が起きているのか分からなくなった大抵の両親は、わが子に塾通いを進めるか、丸暗記しろと妥協案をすすめます。しかし高いお金を出して通わせた塾でも生徒に納得のいく説明はなく、ただ丸暗記を勧めるだけです。
🔲 この問題で注意しなければならないこと。それは、生徒たちにやってくる矛盾は学校の教室では発覚しないことです。中・高校で展開される「重さ、質量」の授業はせいぜい1,2時間で終わります。さらに、その内容自体に矛盾や誤りがあるわけではなく、論理的に一貫とした国際単位の科学教育です。それに対して混用政策はその場しのぎの産業政策です。生徒にやってくるのはこの2つの異なった場所からやってくる矛盾です。したがって、生徒自身が自分の内部で2つの情報の齟齬に気づくのは、その授業が終わり一定の期間だけ混同政策にさらされ続けてからです。ある日、生徒はふと自分の心の中でこの矛盾に気づきます。このあとの生徒の対応は、2つにわかれます。一つは学校で学んだ内容と社会の情報の両方を受けいれる生徒と、反対に社会からの情報を遮断し教科書の情報だけに特化する人です。(このことは「kgの意味に混乱する高校生の事例調査」で判明)
🔲他方、理科の教師はどうでしょう。教室の授業や実験の準備だけでなく校務やクラブ活動で手がいっぱいです。教科書にも記述されない商品売買の単位が質量に変化したこと、新聞報道もされなかったダブルスタンダード政策で生徒が混乱すること、こうしたことを逐一把握するのは簡単ではないでしょう。語るに落ちた話ですが、中学校の理科の教師用指導書には、この問題に深入りをしないようにと、警告があります。事情によく通じている人の善意?かもしれません。
🔲生徒が直面する混乱の方に話を戻します。かれらは何故、「重さ」という日本語の意味が「質量」の意味になったり「力」の意味になったりするか、理解できません。広辞苑や科学関連の辞典には①の説明だけなので不安になります。また同時に「kg」という記号の意味が「重さ」なのか、「質量」なのかもわからなくなります。特に中学生は、まだ体系的見識をひとつも確立した体験がないため、自分たちが混乱するのはまだ学び足りていないことがあるからではないか、と逆に自責し自問しかねません。そういうかれらが「重さ」という日本語の意味と科学記号の「kg」の意味の両方が同時にわからなっていることに気づいたときが最悪の状態です。力学の建物を支える確かな柱が1本も立たないという悲惨な状態であるからです。これが「質量も重さもわけがわからない!」という出口のない生徒の共通した混乱状態だろうと思います。
🔲 「質量も重さもわけがわからない!」という中学生の声を聞いてから、高校の新2年生を対象に「kgの意味は何?」というテーマでその混乱状況の調査をしました。調査対象はあえて高校受験をかなり優秀な成績で突破した進学校の集団にしました。かれらは、高校受験で、「kgと重さ」を巡って苦しんだ体験をし、受験相談の質問「1kgは何ニュートンですか。」の質問に対する回答にも失望したことでしょう。(どのサイトの回答者も「kgとN」は次元の異なる全く別の単位なので区別しなければならない、と述べるだけで、その背景にある混同政策と理科教育の矛盾には言及しません。)
そんな彼らが受験競争を終えて、はれてトップクラスの進学校に入学し1年を経過し、高校2年生になりたての新学期に以下のアンケート調査をお願いしました。その調査結果は、非常に興味深いものでした。回答の分析の詳細は、報告書「kgの意味に混乱する高校生の調査事例」で述べましたので、ここではその要約と結論を述べるにとどめます。こうした結論に興味をもたれた方は本サイトで「kgの意味に混乱する高校生の調査事例」をクリックしてお読み下さい。
🔲調査内容の問題となる核心は、以下の[問1]と[問4]です。
[問1-1]「kg」の単位の記号の意味は、次のどれだと思いますか。(複数選択可)
①力、 ②質量、 ③重さ、 ④重量 、⑤分からない。
[問1-2]この答に自信がありますか。
①ある 、 ②ない
[問4]商品売買に使われている単位について、正しい内容だと思うものはどれですか。
①商品売買は、「質量」で行われている。
②商品売買は、「重さや重量」で行われている。
③商品売買は、将来「ニュートン」で行われるようになる。
④よく分からない。
🔲(1)[問1-1]の結果は、229名中100名がkgの意味を「②質量」と回答し、正答者率は44%でした。
(2)[問1-2]では75%(171名)の生徒が自分の回答に「自信がない。」と答え、「自信がある」と答えたのは、25%(58名)だけでした。
正答率44%。そこそこの結果かもしれません。ただ、自分の回答に自信がないと回答した生徒が何と75%にもなることに目を見張りました。自信アリは25%だけでした。
(3)自信の有無別の正答者率は、「自信アリ」グループは 62%、「自信ナシ」グループは37%でした。生徒の自信が正答者率を押し上げているように見えます。では、「自信アリ」と「自信ナシ」はどこで分かれたのだろうか。この結果は、教科書でほとんど使用しない「重量」という言葉の使用データから「自信アリ」グループは情報源を教科書に限定し、「自信ナシ」グループは、教室、社会生活の双方から広く情報を受け入れている傾向が確認できました。理科教育、サイエンスリテラシーから望ましいのはもちろん後者ですが、その彼らはダブルスタンダード政策の混乱に巻き込まれ、自信喪失をしていきました。
(4)[問1]のkgの意味の正答者が[問4]での「商品売買に使われている単位は何か」の質問にも同時に正答できた人数と比率を調べると、以下のようになりました。いずれのグループでも[問1]での正答者率が[問4]で激減し、グループ間の違いもなくなってしまいました。
○「自信あり」グループの正答者率:(問1)62%→(問1と問4の同時正答者)7%(4名/58名)
○「自信なし」グループの正答者率:(問1)36%→(問1と問4の同時正答者)6%(10名/171名)
「kgの意味」が分かり、「商品売買を質量」で行っていることの同時正答者率は自信アリ、ナシにかかわらずいずれも6~7%になり、自信との相関関係が消滅してしまいました。
🔲(5) この調査では、自分の回答に対するコメントも生徒に要望しました(メタ認知情報)。コメントは10%の生徒から寄せられ、その内容は非常に明確に自分をモニタリングする自己分析がみられました。予想外だったのは、その情報の3分の2が女子のものでジェンダーバイアスが鮮明にでていたと思われます(別紙にて解説の予定)。その中で(問1)(問4)の同時正答している生徒が、完全正答をしたにもかかわらず2名が「わけがわからない」というコメントを残していました。自分自身に納得がいかないままに暗記して正答していた内面をあきらかにしたものと思われます。
🔲(6)また[問4]の回答で将来商品売買の単位は「質量:kg」でなくいずれ「重さ:N」になるだろうという回答が28%(63名)もいました。これは商品売買の単位が重さから質量になったことを理科、物理などすべての教育団体が沈黙してしまった必然的結果だろうと思います。生徒は納得がいかないこの問題を善意で解釈し、物理の論理的整合性と信頼を将来に託すけなげな解釈をしています。
この調査結果は、学力がトップグループの結果ですが、それ以外の学力の生徒にもあてはまると思われます。(ただ、納得がいかないと表明する事なく、物理に背をむける可能性が高くなります。)納得できない矛盾に遭遇し、自分をモニタリングして明確に述べることができたのは、彼らの努力と研鑽の結果でしょうが、この現状に混乱しているのは、日本のすべてのレベルの生徒であろうと思います。
🔲この21世紀において、残念ながら経産省は国民に対して、封建社会の君主と同じスタンスで「よらしむべし、知らしむべからず。」という愚民政策を推進しているといわざるを得ません。こうした主権者である国民や次世代の科学の担い手となる生徒に言葉の「擬装」で混乱までさせて、なぜ商品売買で全国民に「重さの廃止、質量の義務化」をさせなければならなかったのでしょうか。なぜ、全面SI化を国民に強制するのでしょうか。
最先端の工場や研究所ではSI化し、「質量」の単位を使い、そうではない国民の生活の場では重力単位の「重さ」も使えるという柔軟で必要に応じた多様な単位系の共存が何故できないのか、不思議です。そうすれば言葉の擬装などという手品まがいの罪深い混同政策を実施する必要はなかったと思います。
🔲 21世紀の情報化社会では、u-tubeを通じて「重さがなくなる宇宙飛行士の生活映像」や「重さが地球の6分の1に変化する月面の様子」を簡単に見ることができます。宇宙ステーションでは、同じ「物体(質量)」であるにもかかわらずその「重さ」がなくなり、月面では重さが6分の一に減少したりするのをみています。「質量」は同じでも「重さ」は場所によって変化することが当たり前の存在になっています。
🔲生徒たちは、天上の宇宙ステーションで「重さ」と「質量」は別である現象を簡単にみることができ、地上では経産省によって「質量=重さ=重量=」を混同させ同一視する政策と出会っています。21世紀は、こうした宇宙飛行士の映像から「物体(質量)」と「重さ」を明確に分離できる直感的理解が可能な時代になりつつあります。同じ物体でも「重さ」は場所によって変化することは、子供たちにとっては、理屈ではなく自明の事実になりつつあります。今こうした「質量と重さ」を区別する」時代の過渡期にある次世代の生徒・国民を経産省は支援し、その変化を見守るべきであって、混用政策で言葉の擬装を弄するときではありません。そのために、経産省は混用政策を一刻も早く廃止し、当分の間「SI単位」(質量:kg)と「重力単位系」(重さ:kg重)との共存を計るべきではないでしょうか。
○参考資料
・理科教育と理科離れの実体(一、二、三)、加藤巡一、神戸松蔭大研究紀要2009、
・いつ、なぜ、中学生は理科を好きでなくなるのか?、原田勇希他、理科教育学研究2018、
・「重さ」か「質量」か、高田彰、2001
・計量法がもたらした「重さ・重量・質量」の混乱、森雄兒 物理教育65-1、2016
(2021/05/25更新 mori)
調査事例内容J-STGEは、「kgの意味に混乱する高校生の調査事例」をご覧下さい。
レントゲンのリスク意識
□1ー5.X線発見の反響
NitskeはX線発見に対する当時の反応を次のように紹介している。
「沢山のメッセージが世界中からレントゲンに洪水のように送られてきた。その大半は素晴らしい発見に関するお祝いの辞であったが、中には中傷とか嫉みとか批判するものもあった。また非難するものすらあり、その上”全人類の破滅をもたらす死の線”という死の恐怖を表明するものもあった。」(『レントゲンの生涯』W.Robert Nitske、P81 )
図6. |
レントゲンがもっとも心配した「死の光線」や「悪魔の光線」という不安をあおるような受け取り方は、圧倒的多数の賛辞の山にかき消され、レントゲンの情報戦略は見事に成功したかのように見えた。
しかし、新聞報道の内容に対して,レントゲンは友人「ツェンダーへの手紙」でめずらしく泣き言のようなことを書いている。ツェンダーは、レントゲンが密かにX線の実験をしていたとき助手をつとめていた人物で、互いに信頼しあう関係であることから、手紙にはレントゲンのかなり率直な感想が述べられている。
「ウィーン新聞が先頭を切って宣伝ラッパを吹きならし、それから他のものが追随したのです。2、3日で何もかもうんざりしてしまいました。私自身の研究はもはや見る影もなくなってしまいました。写真は私にとって結論への手段であったのですが、これが一番大事なことにされてしまったのです。」(1896年2月8日「ツェンダーへの手紙」より)
大衆のX線の受け取り方は「ベルタ夫人の手」の透過写真にもっぱら好奇の目が集中し、度が過ぎたブームの流れを作っていた。レントゲンが、「死の光線」という情緒的反応を否定するために最も説得力のある科学的証明として発表した妻の手の写真は今や世間から好奇のまなざしで受けとめられていた。それは体を透視できることの道徳的問題にまでヒートアップし、パリではX線によって体が透けて見えるので女性が一時外を歩かなくなったり(図6)、アメリカではX線を通さないというふれこみの下着まで売りにだされるようになった。
レントゲンはこうした大衆の興味本位の反応で妻を傷つける結果をまねいたのではないかと、心配したことだろう。大衆はX線を「死の光線」として受け止めることから、その対岸にある娯楽や「エンターテイメントとしてのX線」へと予想外の方向へジャンプをしていた。
「X線ブーム」は心血を注いでなし遂げた彼の科学的営為を無視し、科学的実証手段としてのX線写真が好奇なオモチャのように弄ばれ、そのためレントゲンは自尊心が傷つけられたことを「ツェンダーへの手紙」で強調している。しかし、それはレントゲンによる徹底した情報戦略によってX線から「死や悪魔」の危険なイメージを一掃することに成功したために、大衆がX線に対してまったく「無防備」になってしまった結果であった。
さらに、この1896年は、ヘルツによって発見された電信情報システムが実用化されたばかりの年であったため、「X線の発見」の知らせは、ヨーロッパだけでなく電信システムに乗って地球を一瞬で駆け巡っていき未曾有のX線ブームが世界中で同時に起きてしまっていた。その反響はレントゲンにとって予想を超えた凄まじいものだった。
レントゲンは賞賛のみならず嫉妬や神を恐れぬ行為という非難の手紙を読み、次々に舞い込む講演依頼を断り、ひっきりなしにやってくる訳が分からない人の訪問客の対応においまわされていた。そして論文「第1報」でやり残した電離現象などX線の次の研究に取りかかる時間もひねりだせずにいた。X線発表後の4週間、レントゲンは研究にうちこめずに、怒濤のようにやってくる喧噪にとりまぎれ、自らの情報戦略がもたらした結果に当惑した日々を送っている。(この間にイギリスのJ.J.トムソンは、X線による電離現象の確認に成功し、その報告をしている。)
(第1章終わり)
(「第2章.X線ブーム」へつづく。)
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