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図書紹介 福島肇

By   2018年7月3日

『近代日本一五〇年──科学技術総力戦体制の破綻』(山本義隆著 岩波新書、2018.1)

科学技術幻想の終焉と現代史の新たな歴史観

元『科学・社会・人間』編集委員  福島 肇

(岩波新書、2018年1月刊、
320頁、1,015円+税)

◆人間を自然の主人公に置く科学の思想-150年にわたる科学技術幻想

人間が自然を拷問にかけて自然に自白させる、それが研究の正しいやりかただ(ボイル)。新科学のもたらす「実践的哲学」によって、「私たちは自然の主人公で所有者のようになるでしょう」(デカルト)。近代の哲学と科学は人間を自然の外に置いた。人間は「上から目線」で自然を見るようになった。

近代以前の西欧世界では、自然は有機的で生命的な全体であり、人間はその一部として自然に調和して生きていると考えられていた。技術は[16世紀までは]自然に劣るものと見られていた。

以上、本書からの引用であるが、17世紀始まった近代科学が、19世紀、技術と結びつき、科学技術による自然の征服という思想があたりまえに思われるようになった。

西欧に発生した科学技術は資本主義とともに、世界を席巻してきた。だが、それはひとつの思想・イデオロギーに過ぎない。

それを明治、日本で引き継いだ代表が福沢諭吉である。福沢の「自然は完全に合法則的であり、人間精神は無限ゆえ科学によって解明しえないものは何もないという、近代科学への絶対的信頼」(『文明論の概略』6)は、技術の可能性への過大な期待へと繋がる。

誰か山を祭る者あらん。誰か河を拝する者あらん。山沢河海風雨日月の類は文明の人の奴隷と云ふ可きのみ。(『概略』7)

文明の人とは技術を持った人。自然はその「奴隷」とされる。福沢らが囚われていた過大な科学技術幻想が、以後150年間、日本を呪縛したとされる。

◆黒船から福島まで

本書の帯にこうある。本書は、前述した著者の近代科学技術への認識を背景にした、明治維新から福島原発事故までの近代日本150年史である。次のように分けられるのだろうか。

1.明治の「殖産興業・富国強兵」、1910年代、産業革命の終了
2.アジアでただ一国の帝国主義列強への仲間入り、朝鮮・中国などの侵略
3.総戦力体制の構築、科学技術体制の軍事化
4.アジア侵略戦争・太平洋戦争下の「総戦力体制による高度国防国家」
5.敗戦後の列強主義・大国主義ナショナリズムに突き動かされた「経済成長・国際競争」
6.福島原発事故による破綻

これらが、「科学技術総力戦体制」という共通項でくくられ、連続しているものとしてダイナミックに語られる。

明治の科学技術の導入は、市民社会の未成熟もあり、民主主義・人権思想抜きに、官と軍により、軍事中心になされた。この日本的な科学技術の特質が戦前・戦中から戦後と一貫して続いて行く様子が、本書では詳細な資料を基に緻密に描かれる。

150年の歴史の基軸とされるのは、資源とエネルギーの確保であろう。日本の産業革命は電力(電気エネルギー)の工場での利用(1910年代半ば)で完了したとされる。そして、総力戦体制のための新たなエネルギーと資源を求めて、日本は朝鮮侵略からアジア侵略・太平洋戦争へと進んでいく。

なお、資源という面での象徴的な発見はハーバーとボッシュによる空中チッソの固定法とその工業化(1909,1913)であろう。これは肥料や火薬が、硝石がなくても作れるようになったことを意味する。「資源小国」日本では、これが「無から有を創造する」(船山信一・哲学)などととらえられる。

なお第一次大戦は最初の科学戦で、毒ガス、戦車、航空機などが使われた。それが日本に大きな影響を与え、科学技術は文字通り軍事と一体化してゆく。

戦後のエネルギー多消費社会(裏では軍需産業が発展)の分析をへて、終章で原子力(核エネルギー)について詳しく述べられる。核エネルギーの民生利用が、軍事利用に不可欠なこと、それゆえ民生利用が導入されたこと、日本が潜在的核保有国であることだけ確認しておく。

なぜ科学技術総力戦体制が福島原発事故で破綻したのか。ひと言で言うと、明治とともに始まったエネルギー革命(蒸気・電気エネルギー)が1970年代中期の高度成長の終焉で行き詰まり、核エネルギーにまで手を出したことによる福島の事故でオーバーランしたということ。

日本のエネルギー消費のピークは2004年。その後、エネルギー消費は減少している。20世紀後半の資源多消費型の基幹産業が今では衰退産業に向かっている。原発はとっくに必要性を失っていた。福島原発事故は科学技術幻想破綻の象徴である。

また、明治以来増加してきた日本の人口は2011年から減少に転じた。これは資本主義の経済成長の条件が失われたことを意味するとされる。もはや経済の成長を維持しなければならない時代は終わった。

◆学者たちの軍事への協力

本書では、明治以来の大学組織と大学人など研究者の軍事との結びつきにも触れられる。

・海軍省の要請による東大の造船学科設立(1884)。造船の研究は軍艦の研究。

・帝国大学での造兵学科と火薬学科の増設(1887)。

これは「西洋の大学でもあまり例のないこと」(中山茂)。

「日本の軍事力は明治期をつうじて[国防から]対外侵略のためのものへと変貌していく」が「学者はその過程になんの疑問もなく追随していく」とされ、田中館愛橘(物理学・東京帝大教授)にその例をみることができるとされる。田中館は日露戦争が始まるとすぐ航海に重要な地磁気データを海軍に送付。航空機の軍事的重要性を貴族院有志に訴え(1915)、それが東大付属航空研究所創設、航空学科(工学部)等の新設につながった。東大総長、山川健次郎(物理学)も航空機研究に熱心であった。

戦時中積極的に軍と官僚に迎合した例としては菊池正士(物理学・量子力学の正しさを裏付ける電子線回折の実験で内外で有名)が挙げられる。菊池は「「大学の自治」や「研究の自由」の理念の完全な放棄による、軍・産・学の共同による研究の一元的支配とそのことによる研究体制の徹底した合理化」の構想を述べている(1941)。

そのほか仁科芳雄(物理学・理研)らによる原爆研究などきりがない。

◆思想家たちはなぜ誤ったのか-教訓

著者は、思想家たちの科学技術体制、社会・経済認識の問題も鋭く指摘する。

世界恐慌後の時代、軍人や官僚は総戦力体制構築のため、統制経済の下での近代化・合理化を進める。この統制経済が、左翼知識人にまで、社会的進歩を意味するものと受け取られていたとされる。

相川春喜(技術論・マルクス主義)は「技術統制の確立が望まれる」と言い、麻生久(東大新人会創設会員・社会大衆党国会議員)は統制を社会主義への前進として評価。日本資本主義の封建的要素を強調する講座派経済学者に限らず土屋喬男(経済学・労農派、東大教授)は近衛新内閣の統制経済政策を評価(1940)する。

「当時日本ではマルクス主義経済学は非イデオロギー化され、大国ソ連の・・・最も実用的な計画経済の理論とみなされていた」(三谷一太郎2017)とあり、統制経済は評価されていたとされる。

戦前・戦中と戦後を通した典型的な知識人の例は小倉金之助(民主主義科学者協会初代会長・数学史)である。小倉に代表される科学と民主主義の同一視は、戦中には総戦力体制に取り込まれ、戦後は科学主義立国に呑みこまれてしまった。戦争のための軍と官僚による統制経済の下で科学技術研究の合理化に対し、「封建制・前近代性に対して合理主義と科学的精神を対置しただけの・・・多くの批判はその無力を露呈する」とある。

最後に大河内一男(経済学・東大闘争勃発時の東大総長)を挙げる。大河内は産業報国会にたいする政府の通牒が・・・「能率増進」とともに「待遇、福利、共済、教養」その他を挙げていることにたいして「・・・我が国の労働史上極めて革新的な出来事」と評価している(1940)とある。

「合理的」であること、「科学的」であることが、それ自体で非人間的な抑圧の道具ともなりうるという著者の指摘は教訓とすべきと言えよう。

◆科学技術総力戦体制がもたらした植民地での弱者抑圧

本書では科学技術と資本主義・帝国主義の発達の過程で必然的に起こる、社会的な矛盾(弱者の犠牲・農村・漁村共同体の破壊、環境破壊など)も取り上げられる。

明治の酷使された女工、足尾鉱毒事件。日中戦争以降の、工場、炭鉱などでの過酷な労働。大戦下、朝鮮人を中心とした外国人の過酷な労働(朝鮮人強制連行 72万5000人)。戦後の水俣病、四日市喘息、三里塚、沖縄など。

特に注目すべきはアジア侵略下でのアジアの人々の抑圧である。植民地が総戦力体制の実験場となった一例が挙げられる。朝鮮半島での巨大な水力発電所群のためのダム建設(鵬緑江、水豊ダムの貯水湖の面積は琵琶湖の半分)がそれである。1万数千戸、数万人の朝鮮人・中国人の強制移住、現地の人々の過酷な労働などが挙げられる。これは、日本帝国主義のアジア抑圧のほんの一部である。なお、この電力と化学工業の巨大コンビナート建設の中心にいたのは「チッソ」である。窒素肥料工場=火薬工場であることも忘れてはなるまい。

◆現代史への新たな歴史観

本書が提示する大きな論点は、「戦後、日本は民主的平和国家へと変わった」というような歴史観への疑義であろう。世界史の見方の転換であると言ってもよい。著者は、第2次大戦とその後の歴史について、ファシズムに対する民主主義の勝利と見る歴史観にかわり、戦時総力戦体制による社会の構造的変動とその戦後への継承と見る歴史観を提示する。明治、戦前・戦中と戦後は連続していると言うのである。

こうした歴史観は山之内靖により1990年代から語られ始めている。ニューディールによる経済統制もファシズムによる経済統制同様、総力戦体制による社会の編成替えととらえられる(山之内)。

山之内は、戦中は「戦争国家=福祉国家」であったという。総力戦のためには、優れた兵力・労働力としての民衆の「豊かさ」、健康が必要である。食糧管理制度(1942/小作農制度の形骸化)、国民健康保険法(1938)はそうした目的をもって戦中に作られ、戦後に引き継がれた。官僚組織もそのまま生き残った。

科学技術でも同様である。「研究資金をはじめ今日の科学研究体制は、すべて戦争を本質的契機として形成されてきた」(広重徹『科学の社会史』1973)。戦時下に創られた科研費、大学院制度、研究機関や理工系学校もほとんどそのまま生き残っているとある。

著者は、健康保険制度などが、軍事目的であったからいけないと言っている訳ではない。「日本の近代化の悲劇」は「軍国主義の進展という社会条件のもとでしか始まらなかったという点に求められる」(広重)と言う。

明治維新から150年、私たちは自分の歴史観と自分の立ち位置を再度吟味するときに来ていると言えよう。

◆科学技術者の軍事研究、戦争総括から現在

戦前・戦中、科学技術総動員体制のもと、科学者、技術者は何の抵抗もなく軍事研究を行ってきた。戦後その反省の言葉は見られない。科学力で戦争に負けたというのが戦争総括であり、敗戦後「戦争のための科学」を「日本再建のための科学」と置き換えただけである。

そして、科学者・技術者は戦後どうなったのか? 一時的に日本の非軍事化を目指したアメリカは、朝鮮戦争で日本の兵站基地化を進めた。自衛隊の創設と相まって、戦中の軍事技術者は、復活した三菱など戦中の軍需産業のもとで、軍事研究を行っていく。戦後の軍事研究・軍需産業は「高度成長」などの民生部門に隠されていたが、アメリカからの技術導入から独自技術の開発へと、明治と同様な形で急速に進められてきた。

安倍内閣は2014年、武器輸出を全面解禁した。民事部門で経済成長を望めないなか、軍需産業は財界と政府によって「日本経済の牽引車」として期待されている(経済の軍事化)。既に大学に軍事研究が要請されており、研究者は再び「科学動員」に直面している。

私見では、出所が軍事だろうと研究費のみ欲しがる科学技術者に軍事研究の拒否を期待することはできない。民衆のがわからの、大学科学者・技術者への異議申し立ての継続が必須である。

◆戦後の大学研究者の責任と学生たちの異議申し立て

熊本水俣病では、旧帝大の科学者が産業界と官庁と一体となって事件を隠蔽・矮小化しようとした。三池炭鉱爆発事故でも同じ。常に、企業と国の側に付く旧帝大の科学者達。私の感想では福島原発事故のとき、事故や放射性物質による被ばくをたいしたものではないとマスコミで繰り返す学者たちは、結果として反面教師となった。人々は「権威ある」「専門家」(科学技術者)をもはや信用しなくなった。

1968-69年の学園闘争は「科学技術性善説」と「成長信仰」の見直しを訴えていた。1968-69年、東大闘争で自然に広がった「東京帝国主義大学解体」というスローガンは的を射ていた(『私の1960年代』)。先述の大河内一男が東大総長であったのは象徴的である。

学生たちの異議申し立てをしっかり受け止めたなら、大学研究者の変革の契機になっただろう。だが、大学研究者は機動隊(国家権力)の導入で答えたのみ。自己変革の契機を失った。

◆これからの展望

福島原発事故により、エネルギー革命に始まった、大国主義ナショナリズムと結びついた科学技術の進歩にもとづく生産力の増強と経済成長の追求という150年の歩みから決別すべきときが来たとされる。

では、著者が示す現在取るべき方向は何であろうか。塩川喜信(『高度産業社会の臨界点』1996)を結論にかえるとある。要旨をおおざっぱにまとめる。

1.市民社会が発達し、国家・市場経済への統制力を増した
2.国家の枠組みの相対的低下、国境を越えた市民社会、民衆の国際的交流・連帯が、戦争の防止、多国籍資本の監視、国境を越えた環境保全等を可能とするシステムを遠望している
3.先進諸国の「失業なきゼロ成長」社会へのソフトランディング、グローバル化する資本と国家への対抗軸は、こうした構造のなかで育まれる
4.エンゲルスの「科学的」未来像はあるべくもないことを実感し、「ユートピア」的発想を、民衆の努力・運動・将来的社会のビジョンの提示によって少しでも実現可能とすることが私たちの課題

著者の言うように市民社会の発達から未来が望めるのか、あるいは格差拡大・中産階級の没落により、変革主体が失われるのか、疑問は残る。

また、著者は科学技術の「産官軍学複合体」は、20世紀の「科学の体制化」(広重)のより進んだ形態として、21世紀の「リバイアサン」として私たちの前に登場しているとする。「では、どうしたらよいのか?」という問いへの答は前述までである。

ともあれ、不勉強な私には知らなかったことがたくさんあった。読めば必ず、何か発見があるであろう。

ふくしま・はじめ

1945年兵庫県生まれ。1971年東京大学教養学部基礎科学科卒業。小平錦城高校教員を務める。「教師は生徒から学ぶ」がモットー。創作科学読み物『光の探検』で1984年度東レ理科教育賞受賞。「物理学者の社会的責任」サーキュラー『科学・社会・人間』編集委員を務める。著書に『物理のABC』『相対論のABC』『電磁気学のABC』『パズル・物理のふしぎ入門』(いずれも講談社ブルーバックス)など。

『季刊現代の理論』初出
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kgの意味は何だろうか?(後半)ーーー調査データから見た質量と重さの混乱ーー

By   2017年11月15日

kgの意味は何だろう(後半)ーーー調査データから見た質量と重さの混乱ーーー

4.商品売買の手段を言葉で問う(問4)の回答と分析

次は、こうした「自信あり」・「自信なし」グループが記号「kg」に対してではなく、「商品売買の手段は何か」について言葉で答えてもらう(問4)にどう反応したのかを見ていきましょう。

(1)(問4)の内容

(問4)の設問の趣旨は(問1)のように「記号:kg」からその意味を問うのでなく、「商品売買」の手段を妥当な「用語、言葉」で答えてもらうための問いになっています。従って生徒は(問1)より(問4)の方が回答するために「売買手段の意味」や「はかる」という行為を改めて考え直す必要が出てきます。

 

(問1ー1)での正答者は「自信あり」グループ58名中で34名(62%)「自信なし」グループ171名中で64名(37%)でした(図3、図4)。「自信あり」グループの正答率は「自信なし」グループより2倍近くも高い正答率でした。次にこの(問1)の「自信あり」、「自信なし」グループの正答者が、(問4)で商品売買の手段を言葉で問われると劇的な変化を起こします。その変容過程を追跡しまとめたのが図5、図6です。図5が「自信あり」正答者36名の、図6が「自信なし」正答者64名の変化の行方です。以下ではこの数字を見ながら、生徒の混乱の位相を考えてみましょう。

(2)(問1ー1)の正答者(100名)は、(問4)でどう変化したか?

図5の「自信あり」のグラフをみると(問1-1)で正答した36名が(問4)でも「質量」と正答できたのはわずか4名だけであることがわかります。「自信あり」グループの総数58名を基準にすると正答者は比率が62%から7%へ劇的に減少しました。「自信あり」グループの空中分解といって良いでしょう。

同様に図6の「自信なし」のグラフを見ると(問1-1)で正答した64名が(問4)でも「質量」と正答できたのは10名だけです。「自信なし」グループの総数171名を基準にすると正答者は、比率が36%から6%への急激な減少です。「自信あり」より多少緩やかですが、同じ急激な減少といってよいでしょう。

kgの意味を問う(問1ー1)では「自信あり」の正答率が62%であるのに対して、「自信なし」」の正答率が37%と低くかったので、「自信の有無」と「正答率」の大きさに正の相関関係を予想させる差がみられました。そこには生活体験をわきに置いて教科書物理に特化したことによる「自信あり」の影響を見ることができました。それが(問4)の回答では一変して「自信あり」7%と「自信なし」6%と互いの差が殆どなくなってしまいました。このことから(問4)の言葉で商品売買の手段を問うと「自信の有無」が正答者の比率に影響を及ぼす因子やパラメーターではなくなったことが推測されます。すると自信の有無と無関係になっていった(問4)の7%や6%の正答率は、一体何の影響を受けているのかが疑問になってきます。

(3)正答者と誤答者の混乱の位相

次に視点を変えて、その混乱状態をこんどは生徒のコメントから検討してみましょう。「自信あり」の模範解答者4名の中にはコメントする生徒は一人もいませんでしたが、「自信なし」の模範解答者10名の中にはコメントを残してくれた生徒が2名いました。そのコメントには、この混乱の中を彼らがどのように勉強して(問1ー1)(問4)の正答に到達したのかを推測させる貴重な手がかりがあるのでそれを紹介します。

〇B、Cともに「自信なし」グループで(問1)(問4)ともに「質量」と正答した数少ない10名のなかの2名です。Bの生徒は、「あまりちゃんと理解していないです。」とオブラートで包んだように柔らかい言葉でコメントをしています。それに対してCの生徒は、「分からないことだらけでした。」と明確に自分の理解情況を伝えています。自分の思考過程をモニタリングし、その結果は「分からないことだらけでした。」と正面から答えています。この2名のコメントは表面的な言葉の違いはありますが、いずれも同じメタ認知の状態といってよいでしょう。2人とも<いくら考えても>「分からない」だけでなく、<わからない理由もわからなかったこと>を認知していると思われます。結局、この生徒はいずれも論理的整合性がとれない混乱の中で、現実的にどう対応したのかというと、それは自分の論理的整合性や納得感を放棄して<丸暗記>したと述べているのです。こうした「自信なし」の正答者の率直なコメントから、彼らが陥っている混乱の位相は、正答者も誤答者も実は本質的な違いがないことを示していると言ってよいでしょう。

他方の「自信あり」の正答者のコメントは、残念ながら得られなかったので、「自信あり」グループで(問1)で誤答をした生徒が(問4)でも誤答した生徒の場合のコメントを再度紹介します。

(問1)においてコメントを紹介したとき「自信」の由来は語句の定義の確認を教科書などに求めているケースと解釈をしました。ただ、「意外と分かっていなかったので」という意味が読者には分からなかったと思います。この生徒は(問1ー1)で「質量」と正しく回答していますが(問4)では動揺し商品売買の手段を「質量」ではなく、「②重さ、重量」と誤った回答をしたため「意外と分かっていなかったのでーーー」と本人がコメントしていたのです。

これをコメントしてくれたAは、結局(問4)で「重さ、重量」と間違った回答をした原因を自分の不十分な勉強のせいにして、もう一度教科書に立ち戻らなければならないとその決意を述べていたのです。しかし「生活」の中に氾濫している「経産省・用語法」に毎日さらされ続ける以上、いずれ矛盾・対立する「物理用語」との混乱が再発するだろう事への疑問まで本人は、思いいたっていません。

公教育で「kg」に関する授業になると、その場しのぎに「物理」の教科書に自信のよりどころを求め、とりあえず「生活」の中の「経産省・用語法」を無視するスタンスをとるのは、何も中・高校生だけではありません。教育系や医学・薬学系など物理学の初歩を学ぶだけの大多数の大学生にとっても、力学を学習するたびに繰り返すその場しのぎのルーティンワークになっていることが実情です。しかし、必要になるたびに定義の確認を何度くりかえしても、ほとんどの中・高校生も大学生もこの矛盾の根本原因を理解できずに結局わけのわからないまま丸暗記を繰り返していくうちに分からないことに慣れて行きます。

このように「自信あり」の生徒たちは「kgの意味」という(問1ー1)を前にして、教科書という小さな島に上陸することに一時的に成功しますが、(問4)の大波がやってきてあっという間に殆どの生徒が混乱の海に投げ戻されてしまいます(その結果、正答者率:62%→7%)。特に「自信あり」の生徒は、この問題の解決を安易に教科書に求める傾向が強いため、その分(問4)で急激な正答者率の減少をひきおこしています。他方で、「自信なし」グループは、正答者も誤答者も訳がわからず混乱の海を漂流し、わからないことに対する不信感を高めて行きます(37%→6%)。

そして自信の有無を問わず、生徒たちのごく一部(6%,7%)が物理とは別な動機から論理的理解を放棄し、丸暗記によって正答者となっていく行動を起こすのではないかと推測されます。

このアンケート調査が、もし混乱の位相を調査する目的ではなく、ただの学力検査だったならば、(問1ー1),(問4)ともに「質量」と正答した「自信あり」4名・「自信なし」10名の模範解答者をほめたたえ、229名中の14人の正答率6%をはじき出して、その人たちをみんなの目標にしてもっと努力させることで話が終わります。しかし、それは、この混乱の解決にはまったく寄与しないだけでなく、逆に丸暗記をすすめ混乱を固定化する負の効果になりかねないことがよく分かると思います。

(4)(問4)で重複回答者が消えてしまった理由

図5の(問1ー1)と(問4)の重複回答者の統計を比較すると、(問1ー1)では重複回答者が26人(11%)いましたが、(問4)ではたった1人になっていました。劇的といってよいほどの減少が起きています。

これは、すでにふれたように経産省が、「kgの意味」を問うことなく「kgの記号」そのものを使うことを習慣化する方針をとったので、言葉で商品売買の手段を問われると生徒は回答に窮したのでしょう。 kgにどういう用語を使ってもよいという経産省の方針は、「kg」という記号を自己目的化し「はかる」という意味の思考を放棄させるものといってよいでしょう。その結果、生徒だけでなく、これは国民のサイエンスリテラシーも空洞化していく原因となっていくでしょう。

計量法の第1条(目的)には次のように述べられています。

「この法律は、計量の基準を定め、適正な計量の実施を確保し、もって経済の発展及び文化の向上に寄与することを目的とする。」

「はかる」ということの目的は単にものの売買という「経済的行為」だけではなく、「はかる」という意味を考える「文化的行為」でもあることが計量法の目的の中で言及されています。1992年に改正された計量法は、長い間継承してきたこの「はかる」と言う文化的目的を経済優先のために放棄してしまったといってよいでしょう。こうした計量法の改正の余波を受けて、現在の中・高・大学生は「はかる」という行為の混乱を余儀なくされていると言ってよいでしょう。

(5)(問4)での「よく分からない」グループの急増

(問1ー1)ではkgの記号の解釈を巡っていずれのグループでも「よく分からない」という選択肢を選んだ生徒は一人づつ、合計2名しかいませんでした。ところが(問4)では「自信あり」グループが7名、「自信なし」のグループでは33名も「よく分からない」を選択し、合計40名に急増していきました。図7の(問1ー1)から(問4)の変化は「重複回答者」が激減していくと同時に、「よく分からない」が激増していくグラフとも読み取ることができそうです。つまり「重複回答者が大挙して「よく分からない」に移動していったのではないかと、思いたくなりますがその内訳を調べてみるとそうではありません。彼らの動きはもっと複雑に試行錯誤していて、解析はそう簡単ではありません。

その「よく分からない」生徒の回答には以下のように最も多くのがコメントを寄せられています。全員「自信なし」グループのものです。

その中のE、F、Iの3つについて補足のコメントをします。
〇 E:「全然わかりません。」
Eは、(問1)で「重さ」と誤答し、(問4)では「よく分からない。」を選択した生徒です。「よく分からない。」という選択肢を選んだ生徒が「全然分かりません。」と真正面を向いて言い切るコメントに私は少なからず驚きました。この生徒は憮然たる沈黙として「よく分からない。」を選択しているように私には感じられました。

〇 F:「物理まったく分かりません。」

Fの言い方は、Eと少し異なりますが、このわからなさに憮然としている点では全く同じです。今まで、努力して解決できなかったことがほとんどなかった彼らにとって、定義が論理的に整理できずに混乱するという体験は、特異なことを意味しています。いずれのコメントも彼らの学習経験からすると論理的不信感をこめて<全然、納得がいかない。>と言っているとみてよいでしょう。

〇I:「とても興味深かったです。」

ただ、I のコメントからは、納得がいかないことに加えて、自分が傷つかないように警戒をして距離をとりはじめていることを感じさせます。
こうした3人のコメントを分析してみると、彼らの混乱の位相は、理解できない現状に全く納得がいかない、だけでなくこの混乱に強い不信感を持ちはじめていると言ってよいでしょう。

(6)商品売買の単位が「将来、ニュートンの単位になる」という誤解が生じる理由

図5の右のグラフをみると、③63名(28%)もの生徒がまだ商品売買で使用する単位が「将来、ニュートンの単位になる」と誤解をしていることがわかります。なぜ、こうした学力がトップクラスの生徒にいまだにニュートンの単位の誤解が蔓延しつづけているのか、その原因について考えてみましょう。

計量法改正のとき、いろいろな単位の変化・改正がありました。例えば、圧力はmb(ミリバール)からhpa(ヘクトパスカル)に変化し、熱量やエネルギーは cal(カロリー)からJ(ジュール)へ変化し、同時に力の単位は「kg重」から「N(ニュートン)」にシフトすると盛んに新聞で取り上げられていました。1992年頃の話です。ミリバールからヘクトパスカルに単位が変化しても単位面積当たりに受ける力という圧力の意味や単位の次元には何の変化もなく、ただ換算比の異なる別な名前にシフトするだけの問題にすぎません。熱量や力の単位も基本的には同様です。これは同じ次元、同じ意味の物理量での単位のシフトなので、これを単位の「平行移動」と呼んでおきましょう。新聞でとりあげる計量法改正の報道といえばほとんどがこうした物理量の単純な「平行移動」を中心にした話題ばかりでした。しかし、国民に最も身近な商品売買に使われる「法定計量単位」が「重さ:kg重」から「質量:kg」へとシフトするのは意味も次元も異なる「非平行移動」にもかかわらず、これはほとんど新聞でとりあげられませんでした。これほど生活と密接に関連する「法定計量単位」の変化がほとんど報道されませんでした。そのことに懸念を表明する地方紙4の例外的な報道はありましたが全国紙ではほぼ皆無でした5

理科や物理の教科書においても法定計量単位が「非平行移動」すると言う事実には触れられず、一般的に力の単位が「重さ:kg重」から「力:N」へ変化する「平行移動」のことしか言及されませんでした。当時、中・高校の理科実験室には目盛りがニュートンで表示されたバネ秤(いわゆるニュートン秤)が大量に導入されました。このニュートン秤と従来の重力単位系のバネ秤を比較することによって「kg重」から「ニュートン」への移行は単なる換算比の変化(単位の「平行移動」)に過ぎないと誰しも思いこみます。しかし、現実の市民生活では法定計量単位は「重さ:kg重」から「質量:kg」へ「非平行移動」しており、従ってニュートン秤もニュートンという単位も商品売買の世界ではまったく登場することはありませんでした。

このとき、法定計量単位の「非平行移動」の事実を全く知らない多くの人は、商品売買でニュートンの単位が導入されない理由をニュートンという単位が市民社会になじむまで導入が延期になったと誤解したのではないかと思います。「カロリー」が「ジュール」という単位にただちに全面移行していかなかったように、「豚肉100ニュートン」という売買も実行が再延長されたと誤解したのではないかと思います。そうした流れの中で、生徒は法定計量単位がいずれ「ニュートン」に変化すると誤解しているようにみえます。こうした多数の生徒のニュートンに対する誤解を生み出し続けている事実を前にしてみれば、そもそも理科(物理)教育の世界が「はかる」という行為の一大変化に際してこれほど無関心でいられるという驚くべき事実がその最大の原因といってよいのではないだろうか。

  5.生徒が抱える矛盾からみた計量法改正の問題点

これまでのkgの混乱の論点から計量法改正の問題点を再度確認してみましょう。計量法改正が理科を学習する生徒や市民にとって1番大きな影響を与えたのは、生活で商品売買に使える「重さ、重量」という単位がなくなり、そのかわりに「質量」という難解な単位の使用を義務化された事です。特に生徒は「重さ」という生活実感のある言葉から「質量」概念へと段階的に学習していくことができなくなり、いきなり「質量」概念へジャンプし、理解しなければならなくなりました6。しかし実際生徒にとっては、「重さ、重量、質量」の区別がつかない混乱状態にあり商品売買の場で「重さ、重量」の単位が生活の中からなくなっていることにも多くの人が気づいていません。

次に、こうした断層が生徒にとってどう現れ、どう見えてくるのか、という観点から問題を整理してみましょう。殆どの市民は通常、その断層の矛盾から少しだけずれた場所にいます。その理由は、すでに触れたように「経産省・用語法」による言葉の擬装のおかげです。国民の混乱回避のために、「質量」の意味の場所に「重さ、重量、体重」という言葉の看板で「擬装」し、質量と言う言葉の意味ができるだけ国民にの目にふれないようにしているからです。

それに対して理科を学習している人は、理科室で自然科学の「SI単位系」(質量:kg、重さ:N)を使い、他方の生活の中では国際的に非常識な「経産省・用語法」(重さ=重量=質量:kg)を使っているので、この2つの矛盾した断層にまともに直面して混乱します。このように断層はもっぱら理科(物理)の学習者(子供達や成人の資格取得のための理科の再学習者)にだけ集中してやってきます。

学校の「理科(物理)」の授業では生活の「法定計量単位」を問題にせず、「SI単位系」の話だけにすれば、断層は理科室ではまったく表面化しません。中学校理科の教師用指導書では、この「重さ、質量」の問題に深入りしてはいけない旨の用心深いアドバイスがなされています。現実の「商品売買」の世界と教科書の「自然科学」の世界を分離すればこの断層は教室の中では発覚しません。理科の教師たちの多くがこの問題に全く無関心で、何もなかったかのごとくに授業をしていられるのはこの2つを分離し、その断層面に接近しないからです。

他方、国民の中でも中・高校生の子供を持つ両親の場合は少し違った事情が生じ断層に直面することがあります。子供が「理科(物理)」の「重さ・重量・質量」の意味が理解できず、「わけが分からない」と言い出すからです。健全な理解力をもった子供ほどこの混乱を敏感に感じとります。それに見かねた両親が子供の教科書を見て「ニュートン」という未知の単位が「重さ、力」として登場しているのを見て驚きます。「kg:重さ、重量」だとばかり信じていた国民の常識が実は「経産省・用語法」による誤解であったことがここで初めて発覚するのですが、両親はそれを客観視できません。両親も訳が分からなくなります。こうして断層の位置が少しずれ、こどもの両親にも断層の矛盾がやってきます。そこで両親は、子供に丸暗記をアドバイスするか、塾通いを奨めます。こうして多くの中・高校生や大学生がこの混乱回避の最短解は、理解ではなく理解の放棄ではないか、と思いはじめ、それが正答者の比率7%や6%という数字に大きく影響を及ぼしているパラメーター(外的動機)の一つではないだろうか。

6.混乱解決のための提言

「SI単位系」そのものは、時代の要請を受けた21世紀の有能な単位系の一つであることは言うまでもないことですが、それはSI単位系が単独で国家全体の産業のみならず、学術研究、教育、生活などすべての分野にわたってまるごと支配できるほどオールマイティな単位であるか、と言うとそれは全く別な話です。SI単位系は先端技術にとって有能な単位系としての認知は受けていますが、商品売買の手段としては致命的な欠陥を持った単位系です。その理由は、すでに触れたようにSI単位系には、商品売買で使える「kg重」に替わりうる「重さ」の単位を持っていないからです。つまりSI単位系の「N:ニュートン」という重さ、重量、力の単位は、商品売買に使えないからです。従って「全面SI化」をすれば「kg重」の場所が空白になり市民は生活体験の中心にあった「重さ、重量」の単位を喪失してしまう状態になります。経産省・用語法はそれを国民からわからないようにするために「質量」を「重さ」や「重量」という名前で呼んでも良いことにしました。「全面SI化」してもまだ「重さや重量」が存在しているかのように擬装をしたのです。当然ここから言葉の「擬装」による混乱が理科の学習者のなかで始まります。従って、この混乱は「全面SI化」をやめない限り解決されません。そしてこれは文科省の政策の問題というより経産省の政策の問題なのです。

すでにこうした「全面SI化」の欠陥は地球環境の研究者7や土木・建築工学の分野から様々な指摘がなされてきています。問題の核心は、特定の分野でしか有能でない単位系をあたかもすべての分野でオールマイティな単位系でありうるかのごとくに過大評価し、それ以外の単位を認めない硬直したシステムをむりやり導入したのが問題の根源といってよいでしょう。そして経産省は国民には質量概念の理解は不可能とみなし、質量は重さや重量と言う言葉をあてがって擬装しておけばよい、と言わんばかりの一種の愚民政策をとっています。これに気がつけば、ほとんどの国民は現行の計量法に明確に「NO!」を表明することでしょう。

そのための解決策は「全面SI化の廃止」ですが、「SI単位の廃止」ではないことにご注意下さい。「SI単位系」とともに「重力単位系」など様々な有能な単位系との共存を計量法の中核に据える修正を行わなければなりません。問題解決の核心は「kg重」の単位を廃止したことが問題の始まりなので、kg重の単位を復活させる事が解決策の核心です。こうすることによって、「経産省・用語法」は無用になり消滅していきます。

そのための実行すべき具体策を3つあげて本稿を終えることにします。
1.法定計量単位にkg重(重力単位系)を復活させること。(計量法の別表にkg重を付記する。)

2.物品の売買表示はkg重による重さ」表示と「kgによる質量」表示の2重表示にすること。商品売買の秤の表示もすべて同様に「重さと質量」の2重表示にすること。(消費者は、理解できる方を選択して読みとり、理解できない表示は無視すればよいだけです。学校教育には両方理解可能な状態にしてくれることを期待しましょう。)
3.「質量」と「重さ・重量」の単位を峻別するために「重さ、重量(weight)の単位はkg重やN」、「質量(mass)」の単位はkg」を使い、用語と記号の対応をSI単位系、重力単位系に正しく従うようにする。

本論文を作成するために多くの方々から多大な協力をいただきました。その支援がなければ本論文は形をなさなかったと思います。皆様方に深く感謝申しあげます。

(参考文献)

1)市川伸一「学習と教育の心理学3」岩波書店、1995やC.ピーターソン他「学習性無力感」二瓶社、2000は混乱の理解を考える上でとても参考になりました。

(引用文献)

2)森雄兒『計量法改正がもたらした「重さ・重量・質量」の混乱』(物理教育、 Vol.65-1,20-25,2017)

3)久保田英慈「Nは本当に中学生の力概念形成に貢献するのか」という疑問から「Nの導入により、子供達の科学と生活に対する考え方がいっそう分離するように感じる。」という主張が第12回理科教育論研究会資料で展開されていた。(「私が思うこと、感じること」2002.1.13,14)、愛知産業大学三河中学校、

http://www.tcp-ip.or.jp/~ekubota/rika_papers/curicuram.html  このブログは残念ながら現在は削除されていますが、当時の理科教育の変化に鋭い感想を適確に述べていました。

4)長尚(大阪市立大):「国際単位系への統一に反対」信濃毎日新聞(1992.5.9)

5)本稿作成にさいしては、新・計量法の成立過程に関する以下の7社のデジタルデータなどを参照した。朝日、読売、毎日、日経、産経、東京、信濃毎日(アナログデータ)の各新聞。

6)文科省によってkg重の単位が使用禁止になってしまったために、中学校理科ではいくら何でも「重さ」という生活実感なしで質量概念の理解は無理と判断したのだろう。その対策として中学校の教育現場ではkg力などという仮想の新しい重さの単位を考え出す授業の試みなども散見されます。また、高校理科では、生活から消滅した「重さ」の単位と教科書の「質量」との段階的つながりができなくなり、原子や力学の単元では何の説明もなく突然「質量」という言葉を登場させることが起きています。いずれも、「全面SI化」によって理科教育が生活から遊離していかざるを得なくなった端的な影響と言ってよいでしょう。あるいは経産省主導の過剰なグローバリズムと無策の文科省が理科(物理)教育に及ぼした負の遺産といってよいでしょう。

7)茂野博:「地球科学分野における国際単位系(SI)の使用、問題点と解決策」、地質ニュース603号,25 ― 33(2004.11)

(注)引用・参考文献を示す識別番号は、よく4分の1角のサイズのフォントを用いているが、この慣例は参照数字の判読に無用な身体的負担を与えているので、ここではそれを全角で表示にしている。

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「kgの意味は、何だろうか?」(前半)ーー調査データから見た質量と重さの混乱

By   2017年11月6日

いま、kgの意味に何が起きているのか?(前半)ーーー調査データから見た質量と重さの混乱

最近、サイトを見ると、「重さも質量もわけがわからない。」ときれてしまった生徒の発言を見かけ、「ぎょっ」したことがあります。中・高校生は「重さ」はよく分かるが、「質量」はよく分からないと言うのが普通で、「重さ」まで分からなくなってしまったというのは聞いたことがなかったからです。

心配になり、高校受験を好成績で突破した高校2年生に「kgの意味」のアンケート調査をしてみました。すると「質量」という正答が44%でマァマァでしたが。しかし、自分の答に対する「自信の有無」を聞いてみると、自信を持って「kgの意味」を答えていたのは「4分の1」しかいませんでした。残りの「4分の3」は答に自信がなく回答していました。さらに、豚肉など商品売買している計量単位を記号ではなく言葉で回答してもらうと、「質量」の正答は、一気に44%から6%まで急降下する結果になりました。

実は、わたしたちの周囲では、15年ほど前から「商品売買の単位」がわからなくなっているだけでなくその足場である「重さ」までわからなくなりつつあります。誰もが体験したことがない新現象が起き始めています。以下では、私たちのまわりでこの10数年の間に「kgの意味」に何が起き始めているのかを生徒のアンケートから読み解いてみましょう。

わたしたちの周囲では、15年ほど前から「商品売買の単位がわからない。」だけでなくその足場である「重さ」までよくわからなくなり、誰も体験したことがない混乱の新現象が起き始めています。以下では、私たちのまわりでこの10数年の間に何が起き始めているのかを生徒のアンケートから読み解いてみましょう。

1.Kgの記号の意味に自信がない中・高校生

新たに進行し始めたこうした混乱の原因を明らかにするため、2016年、2017年と2年間にわたり「kgの意味は何?」というテーマでアンケート調査をしました。調査は2つの進学校の高校2年生229名(文理混合)を対象に行いました。教材の「到達度」を測る調査ならば、分析方法がすでに定式化されているといってよいでしょうが、「混乱」状態を明らかにする調査の場合はそう簡単にはいきません。到達度が低いことをもって「混乱」状態と安易に見なしがちですが、今起きている現象はそれでは明らかになりません。

たとえば、この調査データでは、混乱をかいくぐって正答を選択している生徒が、コメントでその答に全く納得していないという状態にあることを述べているからです1)。生徒のコメント数が少ないため、必ずしも十分とは言えませんが、採取したデータと生徒のコメントをつきあわせながらその混乱の位相を明らかにしていきたいと思います。

また、この「kgの意味」の混乱が何故発生したのか、その社会的背景については、『計量法改正がもたらした「重さ・重量・質量」の混乱」』2で詳述したのでそれをご覧下さい。アンケートの内容の全体に関心がある方は同論文の末尾に掲載してあるのでそれをご覧下さい。アンケートの内容は(問1)~(問4)までありますが、本稿では(問1)と(問4)に論点を絞り分析していきます。

(1)(問1kgの意味の調査結果の概要

(問1ー1)と(問1ー2)の回答結果を「自信の有無」を考慮せず単純集計すると、図1、図2のようになります。

図1をみると、回答分布は②質量(100名、44%)、③重さ(31%、71名)、④重量(24名、11%)、⑥重複回答(26名、11%)ですが、同じ意味の「③重さと④重量」を合算すると(95名、42%)になり、ほぼ②質量の100名と同じ位の人数になります。従って、「kgの意味」の回答分布は、(正答):「質量」(100名、44%)、(誤答):「重さ+重量」(95名、42%)と、残りの(誤答):「重複回答」(26名、約10%)とおおまかに3つの部分から構成されていると言えます。「重複回答」とは、kgの意味を「質量」、「重さ」、「重量」などをみな同じ意味だ、とみなしている誤答です。

次に図2をみると、この回答をした生徒229名中の75%(171名)の生徒が回答に「自信なし」と答え、「自信あり」という生徒はわずか25%(58人)しかいないことが目を引きます。

「kg」という記号は、かれらが小学校入学以前から、毎日の生活の中で使い続けてきた単位です。その「kgの意味」を、高校生になっても、全体の4分の3の生徒が自信をもって答えられないというのは、驚くべき現象といってよいでしょう。

この結果は個人の勉強不足や努力不足が原因としてかたづけられるものではなく、何らかの社会制度上の問題が錯乱子として彼らに作用し、混乱をもたらしつづけているためと考えるのが妥当だと思います。

(2)「自信の有無」から見た「kgの意味」

それでは「自信がある」と答えた生徒は、kgの意味の混乱からまぬがれ、「自信がない」と答えた生徒はその混乱の渦中にいるのだろうか、ということが疑問になります。また、この2つのグループは何を契機に互いに逆の方向へ分化していったのだろうか。こうした疑問を明らかにするために、「自信の有無」で「kgの意味」の回答を場合分けしてみたのが図3と図4です(クロス集計)。

(3)「自信あり」と「自信なし」グループの「kgの意味」

先ず、「自信あり」グループは、「kgの意味」をどう答えているのか、図3のグラフでみてみましょう。

「自信あり」グループは図2で見たように調査全体(229名)の約4分の1(58人)という少数グループです。その58名中の62%(36名)の生徒が「質量」と正答をしています。その次は「重さ」や「重量」を選択し、誤答した生徒が36%(15名)(ただし、重量の選択者は0名です。)、そして「重複回答」の誤答を選択した生徒が8%(5名)と続きます。

「自信なし」グループの「kgの意味」の集計結果は図4の通りです。分布は「自信あり」と多少異なります。 「自信なし」グループは調査対象全体の約4分の3(171名)を占める多数グループです。その中で最も多い回答は正答の「質量」37%(64人)です。絶対数は別として、その正答比率は「自信あり」グループ62%の半分近くしかありません。自信有無と正答者の数は、相関関係ありと予想されます。次は誤答「重さ」35%(60人)に加え「重量」と誤答したのが13%(24人)になります。「自信あり」グループでは「重量」が0名でしたが、「自信なし」グループでは「重量」を選択する生徒が13%(24名)もいるこの違いは目をひきます(あとで議論をします)。

こうしてみると「自信あり」グループでは図3のように(正答)「質量」(62%)と(誤答)「重さ」(26%)で全体の大部分を占めています。「重量」は0%でした。他方の「自信なし」グループでは、(誤答)「重さ」(35%)と「重量」(14%)で半数を占め、その次が正答「質量」(37%)、「重複回答」(10%)が続きます。それぞればらけて、多様な誤答行動をしている大集団といってもよいと思います。

(4)2つのグループに分離した原因

この少数集団の「自信あり」グループの「質量」と正答した36名(62%)は、一体どのようにして「自信」を獲得したのだろうか。「自信なし」グループと同じ授業を受け、同じ受験を体験した生徒達が、何を契機に「自信あり」と「自信なし」に分かれ図3と図4のように異なった「kg」の意味の解釈をしていくようになったのかは、とても興味深い点です。

そのヒントになるものとして「自信あり」グループで正答「質量」を選択した一人の生徒がアンケートの中で以下のようなコメントを残しているのでそれをみてみましょう。

「意外と分かっていなかったのでーー」という理由は、(問1ー1)では正答をしたが(問4)でミスをしているからです。(その詳細は(問4)の分析の折に再びふれますが、ここでは、この生徒が「もう一度語句の定義を押さえたいと思いました。確認になって良かった。」と言っている点に注目してみました。この生徒の定義の確認の場所は、恐らく教科書やそれに準じた参考書だろうと思います。中学・高校理科や物理の教科書、参考書では、当然のことながら国際標準のSI単位系で「kg」を「質量」の意味で説明し、「重さ」や「重量」は力の意味でその単位はニュートンと説明をしています。従って「自信あり」グループで「質量」を選択した生徒の自信のよりどころは、教科書・参考書などによるものといってよいでしょう。

他方、回答に多様性をもった「自信なし」グループは図4のグラフの中で教科書通りに「②質量(正答)」を選んだグループ64名も、教科書とは異なった「③重さ」を選んだ53名も,「④重量」を選んだ24名のグループも、ためらい、自信がなくそれぞれの選択肢を選んでいるものと思います。すでに述べたように今回の調査対象とした生徒は高校受験をかなりの好成績で通過した集団です。こうした生徒が教科書の記述内容を全く失念してしまっていたり、教科書の記述を否定的にとらえ始めているわけでもありません。彼らは教科書の内容を受け入れ、さらに生活体験の中で当たり前に流通している情報も正しいハズと素直に受けいれ、その結果kgの意味に論理的整合性がとれなくなり、「自信」を持てず困惑しつつ回答をしていると思います。

すると、教科書の知識と異なり、これだけ大きな社会的影響力を彼らに及ぼし「自信なし」に追いやっている生活体験からの情報源とは、一体何なのだろうか、ということが次の問題になります。

2.「経産省・用語法」

 (1)「経産省・用語法」と「物理用語」の矛盾

ここで、理科の教科書に匹敵する、或いはそれよりはるかに大きな社会的影響を及ぼしているのは、経産省が中心となって推進している「質量や重さや重量」などについての特異な用語法が原因であると仮定して今までの現象を説明してみましょう。通常の理科(物理)の授業では「物理用語」に従って「重さ、重量」の用語を「weight」の意味または「重力、力」の意味として授業を展開しています。

それに対して、1992年の計量法改正前後から経産省は「重さ、重量(weight)」の用語の意味を「質量(mass)」という意味で使い始めます。経産省は「重さ、重量、体重」はもともと「質量(mass)」の意味であると主張し、SI単位系(国際単位系)とも異なった特異な用語法を作りだし、これを国内で公用語のように使い始めました。これを以下では「経産省・用語法」と呼ぶことにします。

この用語法は、経産省を発信源として産総研、国土交通省、総務省やその傘下の郵便事業、NHK、全国の各新聞などに大きな影響を及ぼし、われわれの生活の中に着実に入り込んできつつあります。例えば総務省管轄下の日本郵便(郵便局)で使っている郵便物の「重さ、重量」という言葉は「国際単位系」や「物理用語」のように「力:N(ニュートン)」の意味ではなく「質量:kg」の意味で使っています。NHKも以前は「質量:kg」と報道していたのですが、計量法改正後「質量kg」のことを「重さkg」と報道するようになり、「重さ」と言う言葉の意味を「力、重力」の意味から「質量(mass)」の意味に変容させ、「経産省・用語法」にシフトしています。

全国紙の新聞は、経産省・用語法に忠実な新聞から、それに慎重なものまで様々です。そんな中で、最近朝日新聞が突然、経産省・用語法のトップランナーにとびだすハプニングがありました。それは物理学者・梶田氏のノーベル賞・授賞記事において朝日新聞が1面トップの大見出しを「ニュートリノに重さを発見」と報道したことです。これに対して他のすべての新聞のトップ見出しは、「ニュートリノに質量を発見」でした。この科学的にビッグな事件の報道では、ほとんどの新聞が国際標準のSI単位である「物理用語」で報道する中、朝日新聞1社だけが「経産省・用語法」で1面トップの見出しを飾りました。JAPAN TIMESなど外国新聞も、勿論「weight」(重さ)ではなく「mass」(質量)で報道しています。計量法が完全実施されてから18年を経過しても、各新聞社の足並みは同じではありません。最近何かとバッシングされることが多い朝日新聞のように報道スタンスに大きな動揺をみせる新聞社もあり様々です。

こうした現状の中で理科の公教育を受けている生徒たちは、日常生活において矛盾する2つの用語法に取り囲まれて混乱し、kgの意味に自信を持って答えられなくなることは至極当然のことです。生徒と同様に、一般市民も実はこの混乱の渦中にあるのですが、中・高校生と違って一般市民には「物理用語」で答えなければならないテストというものがないので矛盾や混乱をあいまいなままに放置しておくことができます。ここで念のために生徒や市民が直面している矛盾する2つの用語法をあらためて整理すると以下のようになります。

理科(物理)を学ぶ生徒達は商品売買の生活のなかで使われている「重さ=重量(=体重)」=質量(mass)」という「経産省・用語法」に接するのはほぼ毎日です。他方、それと同じ言葉を公教育で理科や物理などの教師が「物理用語」に従って「重さ、重量(weight):N、kg重」や「質量(mass):kg」の定義の違いを教えるのは年間授業時間のほとんど一瞬というほどの短い時間です。現実の生徒たちは、「理科室」と「日常生活」という言葉の意味が異なる空間を往復し、矛盾するこの2つの用語法を一つの知性の中に併存させていかなければなりません。これがいまの生徒達がおかれている現状です。

(2)「経産省・用語法」に振り回される「重複回答者」

「経産省・用語法」の存在がわかったところで、ここで、現実の(問1ー1)のアンケートのデータに戻りましょう。

経産省・用語法に強く影響を受けたと思われる「重複回答者」は26名います。しかし、この重複回答者でコメントを残してくれた人は残念ながら一人もいませんでした。このアンケートでコメントを残してくれた生徒は総計19名いますが、その殆どが「わからない」、「難しい」という主旨のコメントです。この中で「重複回答者」ではないのですが、コメントの内容からあきらかに「経産省・用語法」について言及していると推測できるコメントが一つあるのでその事例を紹介します。

この生徒は、(問1ー1)でkgの意味を「重さ」と誤答し、(問4)では「よく分からない。」と回答しながら「全部同じ意味だと思っていました。」とコメントしています。 この生徒が全部同じ意味と思っていたのなら、(問1ー1)では「重さ」ではなく「重複回答」を選択するはずなのでは?と通常は思います。ところが、よく考えてみるとそうでない場合があるようです。この生徒は当初「重さ」=「重量」=「質量」と思っていて、どれでも同じ中の一つの「重さ」を当然のこととして選択していたと思われます。そしてアンケートに答えていく内にその考えが間違っていることに気づき、「全部同じだと思っていました。」というコメントを書いたのだと思います。そういう観点から今までのデータを振り返ってみると、「重さ」や「重量」と単独の回答している中にも実は相当数の隠れ「重複回答者」が潜んでいる可能性が考えられます。

表2は「重複回答」者から見たkgの意味は「質量」=「重さ」=「重量」、またはそれに準じた見方の一覧と選択者の人数です。これを選択した生徒は表1に示した「経産省・用語法」の影響をかなり強く受けて、「kgの意味」の混乱の渦中にいる生徒たちです。経産省は省内に設置した「SI単位等普及推進委員会」において「kg」という記号さえ使っていれば、「重さ」=「重量」=「体重」(=「質量」)など対応する用語はどれでもよいという方針をとったので、その用語

法が日本中に流通していきました。その結果が大きく表2の高校生の調査データに反映されているとみてよいでしょう。

(注)①力=③重さ(4名)や③重さ=④重量(7名) の重複回答は正しい意味

なので、重複回答から除外し、③重さと読みかえてカウントしている。

「経産省・用語法」に従うと、健康診断での「体重」は実は「質量:kg」の意味であり、自動車の車体計量所での「車の重量」も実は「質量:kg」の意味であり、郵便局の料金表に表示している小包の「重量」も「質量:kg」の意味と読み解かなければならなりません。さらにマスコミやネットを通じて絶え間なくわれわれの生活にこうした用語法での情報が流れ込んできます。言葉に敏感な若い世代はそうした用語法が当たり前と先入観念をもたずにその影響をどんどん受けいれていきます。

こうした「経産省・用語法」に影響をうけ、重複回答した生徒たちが「自信あり、なし」を含めて26名いました。その内訳は「自信あり」グループが19%(5名/26名)、「自信なし」グループが81%(21名/26名)です。さらに「自信なし」グループが経産省・用語法によって特に強い影響を受け重複回答しているだけでなく、コメントHのケースから「重さ、重量」などの選択者にも相当の重複回答者の生徒が含まれていると推測して良いことがわかりました。つまり「自信あり」グループは「教科書や参考書」に支えられ、「自信なし」グループは「経産省・用語法」に強く影響されてこの2つのグループに分化していったものと思われます。

 3.生活から遊離する理科(物理)

1992年に経産省によって推進された計量法の改正(完全実施は1999年)は、教育を受けている子供達のみならず実は国民全体に対しても非常に大きな影響を及ぼすものでした。しかし、その変化の核心については、大手マスコミが報道統制にでもあったかのように沈黙してしまい、国民にはその核心部分は報道されなかったので、その内容を改めてここで確認しましょう。

これは「SI単位」以外の使用を認めないシステムなので「全面SI化」とも呼んでいます。「全面SI化」は、最先端技術にとっては最適の単位系のシステムと言ってよいのですが、商品売買や生活者にとっては最悪の単位系のシステムと言って良いでしょう。なぜなら「全面SI化」すると商品を最も分かりやすい「重さや重量」で取引することができなくなるからです。その理由は「SI単位」では商品売買に使える「重さの単位」が欠落しているからです。今まで毎日使っていた商品の重さの単位「kg重」の代わりがSI単位系には存在しないので、商品売買に使う重さの世界にポッカリと穴があき空白が生じてしまいます。より端的に言えば、SI単位系の「重さ、力」の単位はニュートンですが、ニュートンには法定計量単位としての能力がないのです。従って、「全面SI化」をすると、必然的に「重さ、重量」の代わりに今度は「質量」概念で商品売買しなければならなくなるのです。 この法定計量単位の重大な変化について経産省、文科省、マスコミ、物理学や関連する教育学会は全く沈黙してしまいました。

こうした点を検討してみると1992年の改正計量法は、商品売買の歴史上かつてないほどのハイレベルな一大変化だったことがわかってくると思います。しかし、担当官庁の経産省はこの超ハイレベルな改正内容をはじめから国民に正面から告知するつもりはなかったと思われます。その理由は全国民が「質量」概念を理解し、それを道具として毎日の商品売買の手段としてこれを使いこなすことは不可能と判断したからでしょう。そこで、経産省はその法律の推進のために、「質量(mass)」と言う言葉の使用をできるだけ回避し、「重さ、重量、体重」などの言葉で置きかえる言葉の擬装をはじめています。さらに「kg」に一定の言葉を規定しないで「kg」という記号そのものを普及推進する方針をとりました。

経産省のこうした方針は、1992年頃からわれわれの生活の中に徐々に流し込まれていきます。そして計量法の改正にともなう異変が中学校において影響を及ぼしはじめたのは、2002年に改訂された教科書で生徒達が学び始めたときからです。それに呼応するように中・高校では、重さの単位「kg重」が教科書のメインストリートから消えていきました。「法定計量単位」から「重力単位」を廃止しても、商品売買上の取引や証明と無関係な研究・教育活動においては、計量法の規制の対象とならないはずでした。しかし、文科省は理科(物理)の教科書において「重さ:kg重」の単位を原則廃止し、そのかわりに天上から隕石でも落下してくるように「力:ニュートンの単位」を中学校理科に導入させました。文科省は、経産省の産業政策と全面的に同調し中・高校の教育においてもSI単位以外許容しない「全面SI化」の路線を2002年以降導入したわけです

こうして生徒達は2002年以降、一方の生活においては「経産省・用語法」(「重さ」=「重量」=「体重」=「質量」)に取り囲まれ、他方の理科の公教育においては「全面SI化」され(「重さ」=「重量」=「力」)で教育されるという矛盾した2つの言葉の定義に直面することになりました。

そして公教育の理科では「重さ」という生活実感をもった物理量が不在のところで、「質量」概念を学ばなければならなくなります。いままでの理科教育は、科学の歴史的発展過程のように、生活実感のある「重さ・重量」をベースにしてそこから「質量」という抽象的概念形成の階段をたどっていく学習展開が可能でしたが、2002年以降はこの教育方法が、困難になってしまいました。文科省の方針によって理科教育の中から「重さ・重量」の梯子が取り外されてしまい、突然「質量」の理解までジャンプすることを要求されるようになったからです。例えば、運動方程式を学ぶ前に重さを計算するためには、運動方程式の結論である次の式(重さ=質量×重力加速度 N) を丸暗記しなければならなくなってしまいました。(または、何の説明もなく、重さ≒質量×10とよく丸暗記させています。

「kgの意味」について、「自信なし」と答えた調査全体の75%(171名/229名)の生徒の多くは、多かれ少なかれこうした「経産省・用語法」から影響をうけ、教科書物理と矛盾におちいり、論理的整合性がとれない中で漂流している生徒たちです。初めて理科で物理を学んだ中学2年生の頃は、全員が混乱し「自信なし」集団だったのではないかと思います。その中から「理科」と「生活体験」を切り離し「学校理科(物理)」だけに注目することによって「自信あり」グループの一群が分化していったのではないかと推測されます。

このことは次の「重量」という用語の使用頻度が「自信あり」グループと「自信なし」グループで鮮明に異なっている事からも推測できます。「経産省・用語法」が使用される生活体験の中では「重量」(=質量)という用語が多用されていますが、「教科書物理」ではまったくといって良いほど「重量」(=力)という用語が使われていません。こうした事情を反映して、経産省用語法に強く影響をうけた「自信なし」グループはkgの意味を「重量」という意味に受け取った生徒が24名(図4)もいたのに対して、学校物理に傾斜する「自信あり」グループにおいてはkgの意味を「重量」と言う意味に使う生徒が一人もいませんでした。

理科や物理の教科書は経産省の「全面SI化」政策に追随して、改訂されていきましたが、この方針によって「kg重」から「N(ニュートン)」に改訂された理科の教科書を見た当時の中学校の教師は、「理科が生活から遊離していく。」とブログで驚きの心情を述べていました3。このコメントのように今度は「理科」を学ぶ生徒たちが「N(ニュートン)」という生活とまったく無縁な力の単位を受け入れ、理科(物理)がそもそも生活から遊離した別な世界の存在として受け止め始めます。つまり「自信あり」グループは、理科(物理)から生活を分離することによってあやうい「自信」を獲得し始めたグループとも言うことができます。

他方、「自信なし」グループは、「生活」(経産省・用語法)と公教育の「理科」(SI単位系)との間で混乱し、「経産省・用語法」を駆使しても全く論理的に整理できないためとても複雑な反応をしています。恐らく、生徒にとって「理科」は「生活体験」の中にあり、それと矛盾する事自体が信じられないという健全な科学観を持っており、それが逆に「自信なし」グループを混乱に長く引きとどめているのではないかとも思われます。

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