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専攻:理科教育 主要論文:非識別性多肢選択問題の誤答分析の方法、日本教育工学会       計量法改正がもたらした「重さ・重量・質量」の混乱、物理教      育、 Vol.65-1,20-25,2017        

レントゲンとX線のリスク意識(第4回)改訂版

By   2014年5月19日

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レントゲンとX線のリスク意識(第4回)

8.「トタン小屋」製作の背後にあるもの

レントゲンは、ダムに対して「トタン小屋」の製作時期は「初期の頃」のあとと答え、その使用目的は「移動用暗室」や「写真乾板」のかぶりを防ぐためと説明している。「移動用暗室」の具体的使用方法は述べていないため単に「暗幕代わり」だけと受け取られかねない説明をしている。レントゲンはダムに間違った説明しているわけではないが、「トタン小屋」の製作目的には、いろいろな理由がオーバーラップして設計・製作をされているため、「移動用暗室」としての役割の全体像をレントゲンはダムに説明しきれなかったからだろう。以下で、トタン小屋の製作時期とレントゲンが説明しなかった「トタン小屋」の設計の背後にあるものについて詳しくふれてみよう。

(1)「トタン小屋」製作時期について

レントゲンはトタン小屋をいつ頃製作したのだろうか。レントゲンは、ダムの質問に答えて、「初期の頃の実験では—不便だったので」と答え、「トタン小屋」は実験を始めてからまもなく製作を開始したとみられる。 レントゲンはX線の存在に気がつき猛烈なペースで実験を始めたのは11月8日(日)からである。彼は、内密で研究を進めるために学生や助手がいなくなる金曜日の午後から日曜日の夜までの3日間の週末に集中的に実験を行っている。その3日間はX線に被ばくをしながら実験をし、残りの4日間はX線被ばくのない通常の大学の仕事をするというローテーションで12月20日(日)まで計6回の週末実験を繰り返している。1回の週末実験にあてた研究時間は、当時の資料を考慮して試算すると最大28時間程度と見積もることができる(この試算の詳細は、末尾の「研究時間の見積もり」を参照。) トタン小屋は実験を始めて間もなく作られているようなので、週末実験6回のなかの1回目か2回目あたりにトタン小屋を製作したものと思われる。 ただ、このトタン小屋を製作するには、X線についてある一定程度以上の実験にもとづいた知見がなければ製作ができないので、初期の頃といっても実験を始めた直後ではない。例えば、小屋の全体は、X線の遮蔽能力の高い亜鉛板を使っていて、クルックス管と向き合う正面の壁の亜鉛板は、直径46㎝の円形にくりぬかれそこからX線が透過しやすいように1㎜厚のアルミニウム板で蓋がされている。 レントゲンは、X線の透過性に考慮して金属板を使い分けているだけでなく、一定程度だろうが金属の定量的透過性のレベルにまでも知見が及んでいると思われる。また、写真乾板のかぶりを防ぐための対策にトタン小屋の役割についても述べているため、X線写真の撮影で確認できることがすでに既知になっている可能性が高い。図15.初期のトタン小屋V3小                    図15.実験室の配置と初期のトタン小屋

 

レントゲン自身が信じられない現象を前にして「何度も何度も同じ実験を繰り返して、自分を納得させなければなりませんでした。」とも述べている。 こうした点を考慮すると、週末実験1回(金、土、日)でこれだけの知見に到達できるのは、難しいと思われる。2回目の週末実験前後あたりがトタン小屋の製作時期である可能性が高い、と思われる。 また論文「第1報」発表後レントゲンは「トタン小屋」の改造に着手し、バージョンアップ版を製作している。この2つのトタン小屋を区別するために最初に製作したトタン小屋は「初期のトタン小屋」と呼ぶことにする。

(2)「初期のトタン小屋」でのX線の防護対策

雑誌記者ダムが細かく報告しているデータから書き上げた実験室の平面図は図15に示した通りだが、その図面などからレントゲンの実験方法に大きな変化を示すものが二つみられる。第1にあげられるのが、すでに述べたトタン小屋の壁の仕様である。正面の窓のみ1㎜厚のアルミ板を使用していることを除いてすべての壁にX線が透過しにくい亜鉛板を使っていること。 第2は、レントゲンはトタン小屋を「移動用暗室」(傍点筆者)と呼んでいることからクルックス管とトタン小屋の距離を最適条件に移動して実験していることである。 ダムがインタビューに来たときはクルックス管とトタン小屋の距離はあらかじめ約5インチ(約12㎝)というかなり接近した値にセットしている。そしてレントゲンはダムをトタン小屋に招き入れ、ただちにX線の透過性を体験する実験に取りかかっている。本を蛍光板の前に置いたり、取り除いたりしても本によってX線は全く影響を受けないことを蛍光板の発光現象からダムは明瞭に確認をしている。このときダムは、トタン小屋の中で実験しているが、まったくといって良いほどX線から防護されていない。図15をみると明らかなように、L(クルックス管とトタン小屋の距離)が10㎝程度の場合、X線の取り入れ窓の大きさが直径46センチなので人間一人がX線を亜鉛板によってさえぎることができる影の部分はほとんどできない。亜鉛板の遮蔽効果はなく、この実験の実施方法では、トタン小屋があってもなくてもX線の被ばく

図16.レントゲンの実験室

図16.レントゲンの実験室

量は全く同じである(注)。 実は、ダムが体験した実験の方法は、レントゲンが通常実験をする方法とは全く異なっている。ダムに実施した方法は、多忙なレントゲンが体験実験の時間を節約するために実施した方法で、X線の防護を考慮していない方法である。レントゲン自身がトタン小屋を使いダムが体験したのと同じ透過実験をするならば、次のようにするだろう。 レントゲンが実験をする場合には、クルックス管とトタン小屋の距離を5インチ(12㎝)よりもっと大きくするだろう。その理由は、トタン小屋には外部からの光を完全にシャットアウトできる暗室としての機能があり、その効果を生かせばクルックス管との距離をもっと大きくできるからである。実験メニューに応じて実験効果を確かめるのに必要な最低の蛍光を得るための最大の距離をまず突き止めなければならない。通常は試行錯誤して多少は時間がかかるだろうが、慣れているレントゲンは、その距離がすでに大体わかっているだろう。 クルックス管とトタン小屋の距離を実験に支障がない範囲で最も大きい値にセットしたら、レントゲンはトタン小屋の内部に入って扉を閉め、目が完全な暗闇に慣れるまで待機し、内部の暗黒に十分に目がなれてから実験を始める。こうして目の最高の感度の状態で実験結果を確認できるようにして、最低のX線の強さで実験をしようとしている。そのために一度暗室に入ったら外に出る必要がないようにトタン小屋の内部に、クルックス管の電流を遠隔制御するための電流コントローラーを引き込んでいる。こうした方法で実験を行うと、実験の開始までの準備時間はかかるが、X線の被ばく量は大幅に減少させることができる。 もし、トタン小屋の効果によってクルックス管から今までの距離の3倍離れることができればX線の被ばくは9分の1になる。10倍離れることができればら被ばくは100分の1にもなる。被ばく量は距離の二乗に反比例するのでその効果は急激に現れてくる。この2乗に反比例する法則について、レントゲンはクルックス管から10㎝、20㎝の距離でデータをとり、第1報でその実証に成功しているので、距離によるトタン小屋によるX線防護の効果は、レントゲンが簡単に計算し予測できたことであろう。また、クルックス管とトタン小屋の距離が大きくなるにつれ、X線は平行光線の状態に近くなって実験者に到達するので、トタン小屋によるX線の遮蔽ゾーンも大きくなっていく。 ダムの場合は、レントゲンがあらかじめクルックス管とトタン小屋の距離を5インチ(12㎝)というかなり接近した距離に設定しているので、実験結果の透過映像はダムが暗闇になれる時間の必要もなくただちに確認できている。ダムの実験メニューは一つしかなくしかも体験時間は短いので、X線の防護に配慮をしないで実験を実施したものと思われる。 トタン小屋のX線の引き込み窓のサイズを直径46センチというかなり大きいサイズにしているが、X線防護の観点からすると、窓を小さくしてX線ビームを絞るのが最もオーソドックスな対策である。何故、窓のサイズを小さく絞らなかったのだろうか。 その理由は、第1報のなかで報告されている実験メニューと関係がある。たとえば、ガラス、アルミニウム、方解石、石英などは、同じ密度をもった物体であるが、当初はX線の遮蔽性能は物体の密度の大きさで決定されているのではないかと考えられた。そこで、その物体を同じ厚さにした試料を用意し、それらのX線の透過性は同一かどうかを確認するために、試料に同時にX線を照射し蛍光板などでその結果を比較しながら確認していっている。 また原子量と透過性の関係を調べるため、「白金、鉛、亜鉛、アルミニウムの薄板を圧延によって作成し、これらがすべてほぼ同じ透過性になるまでそれぞれの厚さ」を変化させていく根気のいる実験をしている。このときそれぞれの透過性が同一になっているかどうか、を検証するためには、先の密度の例と同様にある程度の大きさの映像が必要になるからだろう。 レントゲンは、このようなトタン小屋の設計の背後にある事情については、ダムに全く説明していない。レントゲンはダムに対して厚い書籍のX線の透過性についての科学的に立証された事実は丁寧に説明しているが、トタン小屋の機能といまだ科学的裏付けのないX線障害の防護についても全く説明していない。レントゲンにとっては、X線実験においてトタン小屋が必要不可欠な存在であることを世間にオープンにしたことでよしとしたのかもしれない。 3)バージョンアップ版の「トタン小屋」 3月9日に投稿した論文「第2報」のための実験においては、高性能なフォーカス管を使い始めたためX線の被ばく線量率が一気に増加し、X線障害の危険性も飛躍的に高まった。また、第2報においては実験テーマの中心がX線の電離作用に移っている点も考慮して、「初期のトタン小屋」のX線防護システムを大幅にバージョンアップしている。

 

図17.第2報トタン小屋V3小

         図17.バージョンアップ版のトタン小屋

図からわかるように「バージョンアップ版」では正面の亜鉛板の壁の上に鉛板を貼り2重にし、X線を取り入れる窓を今までより10分の1のサイズの直径4㎝に縮小している。トタン小屋に導き入れるX線によってレントゲン自身が被ばくしないようにビームを絞ることによるX線防護対策を施している。論文「第2報」は、「第1報」に掲載が間に合わなかったX線の電離作用というテーマが中心のため、「第1報」の時のような大きな画面が不可欠ではなくなっていることが影響していると思われる。また、同時に電離の実験のさいに発生したイオンがトタン小屋の外部に漏れ出たり、入り込んでこまないように小屋の徹底した気密化もはかっている。このようなトタン小屋のバージョンアップがおこなわれたのは、「第2報」の実験が行われる前の1896年2月はじめ頃と推測される。 (4)リューンコルフ感応コイルからの電磁波の対策 当初は、X線の透過性が小さく手の平程度のX線写真しか撮影できなかったが、放電管の真空度を上げ、高電圧を加えて行くにつれだんだん人体の深部のX線写真の撮影が可能になっていく。こうしてリューンコルフ感応コイルに加える電圧がどんどん高くなっていくと、未体験の高電圧によって生じた強力な電磁波が体内に誘導電流を発生させ、火傷を起こしているのではないかと、危惧されはじめたものと思われる。実験装置の配置図(図18)を見ると、リューンコルフ感応コイルが、部屋Bから隔離されて部屋Aに設置されているので、レントゲンはコイルから発生する電磁波の及ぼす障害の可能性を考慮し、念のために距離をとってその対策をしている可能性がある。 (5)レントゲンのX線防護対策 このようにレントゲンは、科学的レベルで考えられる火傷の原因をリストアップし、確率の高い対策から低い対策まで考慮し、網羅的に実施するX線に対する防護システムを実施している可能性が高い。しかも、このすぐれた防護システムは、論文「第1報」のための第2回の週末実験前後という時期(「初期の段階」)に、はやばやと実施されていると推測される。 こうした慎重なレントゲンの防護対策がなかったならば、論文「第2報」、「第3報」と急激に被ばく環境が悪化する実験室での研究活動に、レントゲンの健康はとうてい耐えられなかったであろう。エジソンの助手ダリは急性症状において火傷、潰瘍を発症し、晩発性障害で発ガンし、死亡している。それに対して、W.C.レントゲンは急性症状において火傷の発症でとどまり、潰瘍も晩発性障害のガンも発症していない。この差違をもたらした最大の原因は、ダリの上司であるエジソンは火傷・潰瘍の原因を最後までX線が原因と認めなかったのに対して、他方のレントゲンは科学的検証を経ていなくても可能性の高い原因に対して網羅的対策を迅速にとっていることであろう。この差違はその後の2人に決定的な影響を及ぼしている。

 

(補足)レントゲンの「第1報」での「研究時間」の見積もり

レントゲンは未知の線に気がついた11月8日(日)から猛烈なペースでX線の実験を始めている。

ヴィルツブルグ大学物理学研究所

図18.ヴィルツブルグ大学物理学研究所

11月8日に「続く数週間、レントゲンは自分の家(3階)で過ごす時間はほとんどなかった。食事もお盆にのせて(2階の実験室に)運ばせ、毎日の長い散歩もさぼり、その上疲れ切った時は一寸うたたねができるような実験室に簡易ベットを運び込ませた。」(「レントゲンの生涯」W.R.Nitske,p77,考古堂) レントゲンは、平日は通常の講義や実験、学内の公務をこなし、学生や助手がいない週末になるとX線の実験を集中的に実施している。その様子は「早朝」から「夜中」までという曖昧な表現になっているので、筆者が夜中の時刻は22時、早朝は7時と仮定してみた。そして金、土、日曜日にわたる週末の研究時刻を表のように想定してみた。研究時間 金曜日は午後から研究を始めて2時間の夕食と休息の時間、土・日は早朝から始めて4時間の昼食・夕食・休息の時間をとったものとして正味の研究時間を表2のように見積も った。レントゲンの娘のベルテリィが語った内容では、X線研究をスタートした数週間は 実験室にこもりっきりになっていたことが語られている。ここでは、そういうペースのレントゲンの研究時間を見積もると1回の週末実験で28hと見積もられる。 1896年のカレンダーを見ると、11月13日(金)から12月20日(日)までの間に週末実験が6回可能である。12月22日(火)は、ベルタ夫人の手の写真を撮影した日であり、レントゲンはこのとき彼女に研究内容のすべてを説明している。その前後で「第1報」の論文執筆を始めているようなので、第6回目の週末でほぼ実験が終了しているとみなした。 最初の数週間はこのハードなペースで実行し、徐々に研究時間は減少しいる可能性が高いが、このハードなスケジュールで6週全部実行したと仮定して計算すると総研究時間:28h×6回=168h≒170hが得られる。レントゲンの研究時間は最大で170h程度と推測される結果となる。 なお、11月8日は、レントゲンがX線に気がついた日に当たるがこの日は、混乱とこれから始まる系統的実験の準備の日とみなし、170hの中には計算しなかった。また、クリスマス休暇についても、日程が不明なので170hに加えていない。

(第5回 最終回へ続く)

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レントゲンとX線のリスク意識(第3回)改訂版

By   2014年5月19日

レントゲンとX線のリスク意識(第3回)

7.レントゲンの「トタン小屋」

時間を追うに従って悪化していくレントゲンのX線ひばくの環境を考えると、レントゲンが火傷を体験するのは、時間の問題であったのは明らかだが、それがどの段階において発症したのかは、よくわかっていない。レントゲンが第1報から第3報の論文を執筆するまでの間、どのようなX線防護対策をとったのか、ということについてレントゲンが直接に言及している資料は見当たらない。通常はなんらかのX線障害を発症し、はじめてX線防護対策をとりはじめるので、レントゲンの実験方法に防護対策と思われる動きが見えたときが、レントゲンが火傷を発症したときと判断してよいだろう。そういう変化を推測させる有力な手がかりとなるものにレントゲンが製作した「トタン小屋」がある。それについて言及している資料は2つある。一つは、アメリカとイギリスで発行されていた雑誌McClure’s Magazineの特派員ダム(H.J.W.Dam)が1896年1月29日にレントゲンにインタビューしている取材記録である。もう一つは、1896年3月9日に発表した論文「第2報」である。前者のダムのインタビューの記録は内容が豊富でそのときの様子がよくわかる。後者のレントゲンの論文ではそれに関する内容が数行しかないが、貴重な記述がみられる。

以下では、2つの資料を検討しながら「トタン小屋」を使ったレントゲンのX線防護対策に

図14..ケリカーの手

図14..ケリカーの手

ついて検討してみる。
(1)雑誌記者ダム(H.J.W.Dam)によるインタビュー
図3のベルタ夫人の写真と比べると、1ヶ月の間に解像度が飛躍的に向上していることが分かる。X線の存在を公表してから1ヶ月になろうとするこの時期は、すでに述べたように、レントゲンは猛烈な雑事に追いまくられながら「第1報」で積み残した研究にも手つかずで悪戦苦闘をしている最中である。この頃のレントゲンの様子がよくわかるので、当時彼が抱え込まざるを得なかった大きなスケジュールだけを述べてみる。

1月12日にドイツ皇帝ウィルヘルム2世から御前講義を命じられ、その準備のために多大な時間を犠牲にしている。その11日後の1月23日にはヴィルツブルグ物理医学協会で講演を行っている。立錐の余地もない聴衆の前で、レントゲンはケリカー教授の手のX線写真の撮影の演示まで見事にこなしている。この講演は、レントゲンの「第1報」の論文掲載に異例の配慮をしてくれた協会への返礼であり、形式的には掲載論文に対しての事後発表の責務を果たしているともいえる。

その講演の6日後の1月29日に、いままで国内でのすべてのインタビューを断り続けてきたレントゲンが、突然雑誌記者ダムからのインタビューに応じている。この騒然とした時期に、レントゲンが自らの意志でインタビューを受け入れたため、周囲からさぞ大きな驚きで受け止められたことだろう。このインタビューで注目すべき点は、レントゲンがダムの質問に答えるだけでなく、論文「第1報」を執筆するために使った実験装置もダムに体験させていることである。X線を発見するためにどんな機器を使い、どのようにX線を発生させていたのか、というダムの質問に対してレントゲンは率直に答えている。このインタビューの記録を読むと、レントゲンがどのようにX線の防護対策をとっていたのかもよく見えてくる。

以下のインタビューの引用文の( )内の文章や数値は事情を分かりやすくするために筆者が補足したものである。また、図18は筆者が主にインタビューの資料をもとにレントゲンの実験装置の配置を図面化してみた。真空ポンプの位置は不明なので配置図から省略している。

(2)ダムが見た実験室の「トタン小屋」

記者ダムは、レントゲンの実験室に案内されると、そこで大きなトタン箱、あるいは小部屋のような「トタン小屋」をみつけている。以下は「孤高の科学者W.C.レントゲン」山崎岐男、P122-P123、医療科学社、1995からの抜粋であるが、山崎訳に一部誤訳がみられるためMcClure’s MagazineVol6,No.5,April,1896,p412にあたり部分的に森が修正しているので、内容は引用文献と一致していないところがある。)

「彼(レントゲン)は私を別な部屋(A)に案内して、実験に用いたリューンコルフ感応コイル(机1)を見せてくれた。それは普通のリューンコルフ感応コイルで、火花間隙が4~6インチ(10~15㎝)、20アンペアの電流を通して駆動させるものであった。そこから2本の電線が出ていて、開いた戸を通して右側にある小さな部屋(B)につながっていた。
その部屋には小さな机(机2)の上にクルックス管が載っており、感応コイルからの線と連結されていた。しかし、その部屋で1番目立ったのは、高さ7フィート(2.1m)、縦4フィート(1.2m)×横4フィート(1.2m)の大きくて奇妙なトタン小屋だった(約半畳の広さ)。何か大きな箱のような感じで部屋の片隅にあり、一方の端に約5インチ(12 ㎝)離れてクルックス管がおかれていた。」(「孤高の科学者W.C.レントゲン」山崎岐男、P122-P123、医療科学社、1995)
ダムが「トタン小屋」の用途について質問すると、レントゲンは次のように答えている。「それは移動式暗室(傍点は筆者)として作られたのですよ。初期の頃の実験では、窓から入る光線を遮蔽するために部屋全体を黒い重いカーテンでおおわなければならなかったのですが不便なので、トタン小屋の1つの面に18インチ(46㎝)径の窓をあけ、1mm厚のアルミニウムでふたをして、周りをハンダ付けにしました。見えない線(X線)を観察するには、私は電流だけ操作をすればよいようにしたのです。小屋の入り口を閉めると完全な暗室になるので、光または光の効果を見るだけで良かったのです。」(同上)

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レントゲンとX線のリスク意識(第2回)改訂版

By   2014年5月19日

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レントゲンとX線のリスク意識(第2回)

5.X線ブームと放射線障害

図8.T.エジソン

図8.T.エジソン

真空放電の実験装置はほとんどの大学の物理学科に備えられていたので、1896年1月1日以降、

直ちに各地でX線の追試が行われた。イギリスでは、低圧(1~0.1Torr)の放電管がよく使われていたため追試に失敗するケースが多く、レントゲンの発表は虚偽であるという報告もあったが、1ヶ月ほどで混乱は収まってきている。他方ウィーン大学では同年1月17日には、もう生理学教授のジグムントらによって、前腕の骨折や弾のはいった手などのX線写真を自前で撮影し、医学での応用研究をスタートしている。同年2月にはキャベンディシュ研究所の物理学者J.J.トムソンが、X線によって空気中に電離作用がおきることを報告し、のちにこの研究はウィルソンによって「X線による雲の発生」そして放射線を可視化する「霧箱の開発」へと発展していくことになる。

また「エンターテイメントとしてのX線」に最も早く反応したのが、当時発明王といわれていたアメリカのT.エジソンである。エジソンは、全社をあげて不眠不休の体勢でX線による「透視用暗箱

図9.透視用暗箱

図9.透視用暗箱

(Flouroscope)」や「X線照明装置」の開発に取り組んでいる。透視用暗箱は図9のように対象物にX線を照射し、それを蛍光スクリーンで受け、明るい場所においてもX線の透過映像をリアルタイムで見ることができる装置である。

エジソンが同年5月のニューヨークの電灯協会博覧会でX線の公開実験を実施したところ、驚異的な数の市民が見物に押しよせている。その後「エジソンのX線キット」が売りに出され、こうして種のない危険なマジックが、大道芸の仲間入りをしていく。

この開発過程でエジソンは目を痛め、エジソンの助手のクリアランス・ダリは実験のモデルなどで過剰にX線被ばくをして火傷や潰瘍を発症している。その後ダリは、潰瘍からガンを発症し両腕を切断するが、1904年39才で死亡している。

X線被ばくによる最初の犠牲者と言われている。そ

図10.ダリの手

図10.ダリの手

の後、エジソンは、X線の商品化から撤退する経営判断をするが、身体に障害を及ぼす直接の原因はX線によるものとは認めることができなかった。

6.レントゲンの被ばく環境の変化

1896年の新年があけ、2月にはいると、レントゲンは、より高性能のX線発生装置でX線の実験を始めている。その後数ヶ月遅れで一般の研究者やその関係者も同じ実験をしている。こうしたパターンは約1年半の間続き、レントゲンは常にこうしたX線被ばくのトップランナー役をつとめている。

レントゲンは、このような危険な役割を常に果たすことによって、本当にダリのようなX線障害を発症しなかったのだろうか。それとも、放射線障害を秘密にしてX線の研究を続行したのではないだろうか。残念ながら、こうしたレントゲン個人の健康面に言及した記録はほとんど見当たらない。そこで本稿では少し遠回りだが、レントゲンのX線研究での被ばく環境を明らかにしながら、彼の放射線障害の可能性を検討していくことにする。

図11.ヒットルフ管

図11.ヒットルフ管

レントゲンのX線発生装置は、X線発見の論文「第1報」を書き上げるときから、つづく2つの論文執筆へと時間を経るに従って大幅な性能の向上が見られる。「第1報」を書き上げるためにレントゲンが使った放電管は図11や図12のようなどこにでもあるヒットルフ管やクルックス管である。ただレントゲンは真空ポンプに改善を加えて、放電管の真空度をあげ50~60kVの高電圧を加えてより強力なX線を発生させている。

ヒットルフ管やクルックス管の中で、電子は高電圧で加速され高速度でガラスに衝突し、そのエネルギーのほとんどはガラスに衝突したとき発生する熱になり、残り1%足らずのエネルギーが紫外線よりさらに波長が短い電磁波・X線を発生させるのに使われている。電圧を上げすぎたり、長時間放電させると放電管のガラスが高温となり壊れてしまうので、クルックス管やヒットルフ管ではそう強力なX線を発生させることができなかった。

次の論文「新しい線について(第2報)」(以下では「第2報」と略称する。)では、放電管の飛躍的高性能化がみられる。レントゲンは、すでにクルックスによって考案されていた「フォーカス管」に工夫を加え、図13のような放電管を使い始めた。このフォーカス管では、電子を発射する陰極は焦点をもった白金の円板状のものに改良されている。また今まで電子をガラスに衝突させていたのをやめて、陰極の向かいに電子を衝突させる金属のプレート板を設置した。今度は、円板の陰極から発射された電子がプレート板で点状に衝突しても、プレートは金属なので放熱がすばやく、高電圧に耐えられるため強力なX線の発射が可能になった。しかも、電子線(陰極線)がプレート板の1点に集中して衝突すると、そこから点光源のようにX線が発生し、点光源の電灯から鮮明な影絵ができるように、X線においても飛躍的に鮮明なX線写真の撮影が可能になった。

レントゲンはこうしたフォーカス管を使い、電圧もさらに80~100kVまで上昇させている。こうして手の透過写真は、今まで15分近くかかっていたものが、わずか1分間で撮影が可能になった。撮影時間が15分の1に短縮したということは、レントゲンの被ばく環境が一気に15倍ちかくも悪化したということでもある。

図12.クルックス管

図13.フォーカス管

レントゲンは、さらに1896年3月から翌年1897年3月の間に電圧を150kVまで上げさらに透過性の高いX線を発生させている。その頃は、4cmの厚さの鉄板も透過する硬X線を発生させている。こうした実験によって高価な放電管の破損が相次いで起きたため、実験のための予算が底をつき、あの実直なレントゲンが業者と放電管の値切り交渉までしている。こうしてまとめられた最後の論文「X線の性質についての観察の続き(第3報)」(以下では「第3報」と略称する。)は1897年3月10日に投稿をしている。レントゲンは第1報から第3報へ研究が進むにつれてX線発生装置は飛躍的に高性能化するととともに彼の実験環境はすさまじいほど悪化の一途をたどっている。

こうした劣悪な被ばく環境の中で実験を続行すれば、いずれレントゲンも、X線障害を発症しダリと同様の運命をたどっていたのではないかと、考えるのは自然なことだが、レントゲンに関する著書や論文には、レントゲン自身のX線障害の発症と防護に関する記述は残念ながらほとんど見つからない。そのような中で、インターネットのウィキペディアでは、レントゲンが火傷を発症したことと火傷の原因についてレントゲン自身の解釈にも言及している。その内容の抜粋を以下に引用する。
「1895年にX線を発見したウィルヘルム・レントゲンはX線の照射による指の火傷を経験したが、それはオゾンによるものと考えた。」(放射線障害の歴史より)
http://jawikipedia.org/index.php?title

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