いま、教育の姿は?
流行歌のように変わる学習指導要領
ゆとり教育からあたらしい方向へ,また流行のように学習指導要領が変わっていく。落ちこぼれ,国際的学力低下,理科離れ,登校拒否,指示待ち研究者の増加。そして生きる力が必要だとか,応用力が必要だとか,サイエンスリタラシーが必要だとか,さまざまな分かったような言葉が、流行歌のように現れては消えていく。教育の成果は、20年以上のスパンがなければ分からないのが常識だが、文科省のキャッチコピーの賞味期限はそれに較べると驚異的に短い。もちろん、その科学的検証結果など一度も見たことがない。
政治家は徳育教育が大好きだ
政治家は,よく社会問題を教育問題に還元したがる。いじめや殺人事件がニュースになると、待ってましたとばかりに荒廃とした世情から教育に徳育教育が不十分だと力説する。しかし,財政支出がともなう1クラスの生徒の人数を減らすことには関心がとても低い。財界、政治家たちは,自分たちに,たてつかない従順な国民を金をかけないでつくりたいのでは、全くぶれないで一貫としている。
40年間、はぎ取られ続けた教育予算
財界・産業界は,このグローバル化の荒波を乗り越えるための学校教育の改造になみなみならぬ熱意は示す。そのためには,あたらしい企画をたてられ,時代の方向性を見通せる人材育成の教育が必要である。そのための資金はもっぱら国民に要求する。この40年間の間に国家は、この教育に必要な資金のほとんどを国民に要求し続けた。たとえば国立大学の授業料は、この40年間で消費者物価上昇分をさしひいても15倍以上暴騰している。教育費のハイパーインフレをかれらは一貫として推進し続け、いまでは先進国最下位になるほど教育費に金をかけない荒廃した教育立国になってしまった。40年前の日本は、国立大学の授業料を国税で負担し、人材を育成する国家であったが、いまはその費用を国民に要求し、多くの学生にローンをかかえさせ、銀行のお得意先にしてしまった。
教育の最低レベルは保証した大衆の教育は必要になる。スーパーサイエンス・スクールや飛び級制度,大学改革等に見られるようにリーダーシップを握るトップエリート教育に相当のお金をまわしている。同時に大衆教育は学習指導要領に権威を持たせそれをバイブルにしてトップダウン方式の教育を推進している。基本的にサッチヤー政権がはじめた改革をそっくり手本にして,日本での格差社会を効率よく再生する教育システムの実現がそのイメージとも言える。
子どもたちに自立した人生をスタートしてもらいたい父母にとっては,どうだろうか。わが子に豊かな生活を望まない親はどこにもいない。また,今より貧しい生活レベルへ転落することに手をこまねいている親もどこにもいないだろう。どの親も子どもが貧しい生活から自尊心を傷つけられる人生を送らせたくないという思いは,痛切ではないだろうか。
わが子だけを守ろうとする悲しい親の対応
その親たちが真っ先に感じる問題は,所得の高い層の子どもがトップ校へ入学し,所得の低い子はとそれよりレベルの低い学校へ入学する傾向が強まっていることだろう。しかも一度,下流におちてしまうと,そこからぬけだすことがとても困難になりつつある。親の所得格差がそのまま子どもの教育格差をもたらし,またその教育格差が子どもの所得格差を決定していく関係が固定化する方向に現在ますす進みつつある。こうしたことから世の親たちはわが子だけは、ーーーと教育問題に相当のストレスを感じているだろう。
社会階層の分化とその固定化は,教育問題と言うよりは社会問題そのものである。医者,弁護士,国家官僚,議員などが親から子へとあたかも世襲制のごとく社会的地位を維持・伝承していくためには,「教育」の果たす役割はとても大きい。ただ,くれぐれも誤解してはいけないのは,このときの「教育の役割」とは「人間をのばす教育の役割」という意味ではなく,「人間をあきらめさせるための教育の役割」という意味がどんどん強力になりつつあるということである。とても多くの人が,このところ後者の「教育」をこれこそ本来の教育だ、ととんでもない誤解をいだきはじめている。本来の「教育」は人間のプラスの面を伸ばすことにある。そのために多くの時間と着実な努力が必要であり,特効薬のような方法はどこにもない。ころころと学習指導要領をいじくりまわしてはいけないのである。
自己放棄を推進する特効薬としての教育
しかし,「教育」は,やり方によっては人間に希望を失わせたり,自分の能力に失望させたり,夢をあきらめさせたりするのに特効薬のような効果を短時間で発揮させることもできる。教育の怖いマイナス面である。日本の教育は,この20年ほどの間にマイナスの教育をより徹底的に効果的を発揮するシステムへと手を変えしなをかえて、改造されつつある。ゆとり教育の廃止は、効率が悪いとみるとあっというまに賞味期限切れと見なされてしまった。
マイナスの教育が子どもたちの人生に与える時期がどんどん早まってきている。この20年間の間に学校の格差を広げ,高校から中学,中学から小学校へ早い段階へと競争がより徹底的にもちこまれてきた。子どもたちはじっくり勉強をしているどころではなく,追い立てられるように物事に取り組まざるを得ず,教育の場にストレスが常駐するようになってきている。こうしたマイナスの教育システムを通して,子どもたちは早めに自分の将来の夢や自分の能力をあきらめる結果をもたらされている。このときドロップアウトを免れた子供たちには、教育のマイナスの特効薬による効果をあたかも教育による成長と錯覚させている。
おぼれる教育行政
わが子にはやばやと希望に満ちた将来を断念させたくないと思い,塾や予備校に通わせ受験競争にのめりこむのは,基本的には親たちが教育の甚大なマイナス効果からわが子だけを守るための悲しい行動といっていいだろう。そして,いまは親たちの悲しい行動を教育界は、諸手を挙げて積極的に支援に乗り出してきている。このところついに,公教育の中にまで塾や予備校が入り込むことが許容され,学力テスト順位が公開され、教育の混乱はただごとではない。ここに教育行政は、自分の姿を完全に見失って情況に飲み込まれおぼれてしまっていると言わざるを得ない。