By   2020年9月22日

□1ー5.X線発見の反響

NitskeはX線発見に対する当時の反応を次のように紹介している。

「沢山のメッセージが世界中からレントゲンに洪水のように送られてきた。その大半は素晴らしい発見に関するお祝いの辞であったが、中には中傷とか嫉みとか批判するものもあった。また非難するものすらあり、その上”全人類の破滅をもたらす死の線”という死の恐怖を表明するものもあった。」(『レントゲンの生涯』W.Robert Nitske、P81 )

 図6.

レントゲンがもっとも心配した「死の光線」や「悪魔の光線」という不安をあおるような受け取り方は、圧倒的多数の賛辞の山にかき消され、レントゲンの情報戦略は見事に成功したかのように見えた。

しかし、新聞報道の内容に対して,レントゲンは友人「ツェンダーへの手紙」でめずらしく泣き言のようなことを書いている。ツェンダーは、レントゲンが密かにX線の実験をしていたとき助手をつとめていた人物で、互いに信頼しあう関係であることから、手紙にはレントゲンのかなり率直な感想が述べられている。

「ウィーン新聞が先頭を切って宣伝ラッパを吹きならし、それから他のものが追随したのです。2、3日で何もかもうんざりしてしまいました。私自身の研究はもはや見る影もなくなってしまいました。写真は私にとって結論への手段であったのですが、これが一番大事なことにされてしまったのです。」(1896年2月8日「ツェンダーへの手紙」より)

大衆のX線の受け取り方は「ベルタ夫人の手」の透過写真にもっぱら好奇の目が集中し、度が過ぎたブームの流れを作っていた。レントゲンが、「死の光線」という情緒的反応を否定するために最も説得力のある科学的証明として発表した妻の手の写真は今や世間から好奇のまなざしで受けとめられていた。それは体を透視できることの道徳的問題にまでヒートアップし、パリではX線によって体が透けて見えるので女性が一時外を歩かなくなったり(図6)、アメリカではX線を通さないというふれこみの下着まで売りにだされるようになった。

レントゲンはこうした大衆の興味本位の反応で妻を傷つける結果をまねいたのではないかと、心配したことだろう。大衆はX線を「死の光線」として受け止めることから、その対岸にある娯楽や「エンターテイメントとしてのX線」へと予想外の方向へジャンプをしていた。

「X線ブーム」は心血を注いでなし遂げた彼の科学的営為を無視し、科学的実証手段としてのX線写真が好奇なオモチャのように弄ばれ、そのためレントゲンは自尊心が傷つけられたことを「ツェンダーへの手紙」で強調している。しかし、それはレントゲンによる徹底した情報戦略によってX線から「死や悪魔」の危険なイメージを一掃することに成功したために、大衆がX線に対してまったく「無防備」になってしまった結果であった。

さらに、この1896年は、ヘルツによって発見された電信情報システムが実用化されたばかりの年であったため、「X線の発見」の知らせは、ヨーロッパだけでなく電信システムに乗って地球を一瞬で駆け巡っていき未曾有のX線ブームが世界中で同時に起きてしまっていた。その反響はレントゲンにとって予想を超えた凄まじいものだった。

レントゲンは賞賛のみならず嫉妬や神を恐れぬ行為という非難の手紙を読み、次々に舞い込む講演依頼を断り、ひっきりなしにやってくる訳が分からない人の訪問客の対応においまわされていた。そして論文「第1報」でやり残した電離現象などX線の次の研究に取りかかる時間もひねりだせずにいた。X線発表後の4週間、レントゲンは研究にうちこめずに、怒濤のようにやってくる喧噪にとりまぎれ、自らの情報戦略がもたらした結果に当惑した日々を送っている。(この間にイギリスのJ.J.トムソンは、X線による電離現象の確認に成功し、その報告をしている。)

(第1章終わり)
(「第2章.X線ブーム」へつづく。)
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