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レントゲンとX線のリスク意識(2)V6.07

By   2020年8月31日

□1ー2.不吉なX線

レントゲンがX線の発見をどういう感情で受け止めたのか、そのことについてW.Niskeが述べた記録がある。図2のようにX線を放出する放電管(クルックス管)とX線によって光る蛍光体のスクリーンの間に鉛の円盤を手で持って蛍光体にうつる陰影の観察をしていた。そのとき自分の手の骨の陰影を見たレントゲンの体験をW.Niskeは次のように紹介している。

「彼が驚いたのは、鉛の円板のはっきりした輪郭のみならず、親指と人差し指の輪郭までも見えてきた。もっとびっくりしたことに、暗い陰影の中に彼自身の手の骨の明瞭な輪郭が認められたのである。ウィルヘルム・レントゲンは思わず身震いした。彼にとって身の毛のよだつ恐ろしい光景であった。生きた組織の中にある彼自身の骨が長いお化けのような黒い陰影を投げかけていたのである。重々しい疑惑と素直な驚愕とが頭の中でせりあっていた。レントゲンは突然実験を止めた。少し前までは、学者仲間の目に、偉大ですばらしい名声が約束されているように思われたものが、悲惨な悪評に変わってしまうかも知れなかった。」(『レントゲンの生涯』W.Robert Nitske、P79)

当時、人骨は死後に白骨死体となって人目にさらされるとき以外は見ることがなかった。ましてや自分の骨の姿を死んでもいないのに見ることはあり得ないことだった。ところが、レントゲンは、いま実験室のスクリーンに自分の骨の映像を投影し眺めている。自分が生きている現在と死後の自分がまるでゆがんだ時空でつながってしまったような錯覚に当惑したのではないだろうか。

「私が最初に(人体を)透過するという驚くべき線を発見したとき、それは正しく驚愕すべき現象でありましたので、そんな線が実在することを確かめるために何度も何度も同じ実験を繰り返して、自分自身を納得させなければなりませんでした。(中略)それが事実なのか幻影なのか?私は疑惑と期待の間を苦しみながら往来しました。」(『レントゲンの生涯』W.Robert Nitske、P3)レントゲンは、こうした非科学的な考えを打ち消すために、何度も実験を繰り返し、これが事実であることを確認しなければならなかった。

こうした現象があまりに異様な現象であったため、友人、学内の同僚、助手、妻にも一切を知らせることなく、レントゲンは一人でX線の実験を始めている。

1895年12月22日(日)、研究に一区切りがつき、レントゲンは実験室に初めてベルタ夫人を呼び、何の実験をしているかを説明している。そして、彼女に手のX線写真の撮影をさせてもらいたいと頼んでいる。


図2.レントゲンのX線実験の一例

Nitskeはベルタ夫人がX線によって自分の骨の映像を見たときの心情を次のように紹介している。

「ベルタは一瞬息をのみ、この骨のようなものが実は彼女の手であり,自分の骨を見ているのだと説明されて、ゾーッと背筋が寒くなるのを覚えた。ベルタにとって後の多くの人々と同様、自分自身の骨の気味悪い姿を見て、なんとなく早死の前兆になるのではと心配した。」(「レントゲンの生涯」W.Robert Nitske , p2 ,考古堂)

図3.ベルタ婦人の手
図3.ベルタ婦人の手

ベルタ夫人の反応も、発見当初のレントゲン自身の反応と同じあった。それは恐らくX線に対する多くの市民の情緒的反応でもあっただろう。ただ、レントゲンは信じがたい現象を繰り返し確認し、X線に関する様々な科学的検証作業を通して、恐怖感に襲われる自分と科学者としての自分を分離している。一般の市民にそういうプロセスを期待することはできない。

レントゲンがそうした自分を振り返り、そしてX線と初めて向き合う大衆の姿を想像してみる。すると、大衆はX線を死後の自分の姿を投影する「死の光線」や「悪魔の光線」とみなす情緒的な反応に共鳴し合い、歯止めがかからなくなるかもしれないと思う。レントゲン自身やベルタ夫人の当初の反応を考えれば、ドイツの19世紀末の社会でもまだそういう危険性をはらんでいることは、十分考えられただろう。レントゲンにとって、こうした情緒的反応を回避し、冷静に科学的見地から「X線の発見」を受け止めてもらうためには、どのようにその事実を知らせればよいのか、あるいはどういう知らせ方を最悪として回避すべきなのかが、最も重大な問題になっただろう。

レントゲンの実験装置を使ったプレゼンテーションに抜群の説得力があり、その緻密さは高く評価されていた。そうしたレントゲンがX線を公表するためにとった行動を詳細にたどってみると、そこには「死の光線」に対するリスク対策として考えぬかれた情報戦略を実行するレントゲンの姿と同時にそれに反応する社会の予期せぬ行動に直面し当惑するレントゲンの姿も見えてくる。


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□1ー3.X線の発表

こうして極秘に進められた研究成果は、1895年12月28日に『新しい種類の線について(第1報)』(以下では、「第1報」と略称する。)という論文になりヴィルツブルグ物理医学協会に提出されている。論文の内容が重大なためそれを受理したレーマン教授と編集者3名で掲載を即決し、ただちに印刷所へまわしている。レントゲンは、その論文の別刷りを後日受け取り、日ごろ信頼を寄せていた90数名に及ぶ高名な研究者や友人にその別刷りと「ベルタ夫人の手」や「羅針盤」、「木箱の中の分銅」のX線写真3点と年頭の挨拶をセットにして1896年1月1日に郵送している。そして、1月5日のウィーンの新聞『プレッセ』紙にX線発見の記事が掲載され、翌日にはロンドンからただちに世界各国に打電されている。

レントゲンから論文の速報を、受け取った研究者たちはそれぞれの人脈をたどって多くの知人、友人、同僚へ伝えられていく。こうしてX線の論文は、投稿した12月28日から新聞報道された翌年1月6日までのわずか10日くらいの間で、主要な研究者と一般市民にとって既知のものとなった。これが多くのレントゲン伝などで伝えられる発表の概要である。だが、これだけでは、「X線発見」の発表がいかに迅速に伝わっていったのか、はよくわかるが、レントゲンがX線にいだいたリスク意識は全く見えてこない。そこで、以下ではレントゲンの行動がはその点に配慮した徹底的に考え抜かれたものであるという点に注目してみていこう。

 レントゲンは年も押し迫った12月28日にヴィルツブルグ物理医学協会会長のレーマン教授にX線の掲載原稿を持ち込み、即日受理・印刷にまわしてもらうための交渉をしている。ヴィルツブルグ物理医学協会では、年報に原稿が掲載されるためには事前に協会での口頭発表を義務づけていた。しかし、12月28日の時点では、それはとうに終了し、掲載原稿は編集も校正も終了し、すでに年報は印刷中であった。レントゲンはその印刷中の年報に、なんと自分の原稿を差し込んでもらうことを交渉している。さらにその論文の別刷りを印刷・製本して、4日後の1月1日までに入手したいということまで要望している。信じがたい破格の要望である。

当時(1895年)の暦を調べてみると、レントゲンが原稿を持ち込んだ1895年12月28日は土曜日で、翌日29日は日曜日である。記録には28日に即日印刷にまわしたとあるが、実質の印刷・製本の作業日は、30日(月)、31日(火)の2日間で、その翌日の1日(水)がレントゲンの要望した学会誌の年報と論文の別刷りを受け取る日になる。そうした情況でありながらレントゲンは、すべての要望をレーマン教授と3人の編集委員に丸呑みしてもらう離れ業に成功している。レントゲンは、一体彼らをどのように説得したのだろうか。

レントゲンは、論文の別刷りと年報を予定通り1896年1月1日(水)に受け取っている。投稿原稿を持ち込んだ日から5日間である。レントゲンの「X線発見」の第1報の論文は、こうして学会という「真理の殿堂」を経由することによって、一科学者の研究報告が、あっという間に「真理が記述された文書」へと変身した。このように一瞬と言ってよいほどの短い時間で処理されたため、レントゲンの原稿が世間を迷わす不穏な研究として一般市民に漏れ出ていく可能性はほとんどなかったといえるだろうが、レントゲンはさらに完璧を期した行動をとっている。

レントゲンの論文「第1報」には、余計な言説は何ひとつない見事な文体の論文として有名であるが、その論文には写真も図も全く掲載されていない。論文にはレントゲン自身が信じがたかったX線の現象が数多く報告されていたにもかかわらず、それらの現象が科学的事実であることを裏付けるためのX線写真は論文に一枚も掲載されていない。X線写真は、レントゲンの個人的情報として別に用意し、送付している。写真は最大で3種類を約90人分とすると合計約270枚もの写真を事前に準備しておかなければならなかっただろう。これほど煩雑な作業をせざるを得なかった理由は、学会投稿論文にベルタ夫人の手などのX線写真を添付すると、活字拾い・印刷・製本などの作業過程に携わる職人たちがこの驚愕の写真を目にし、あっという間に世間に不穏な噂として広まっていくとレントゲンは予想したからだろう。

図4.木箱の中の分銅 (X線写真)
 図5.金属ケースの中の羅針盤(X線写真)

レントゲンは論文の別刷りが届くと、直ちに90数名の高名な研究者・友人に郵送するために、あらかじめ焼き付けが終わり準備してあった「X線写真3点セット」と「別刷りの論文」に「年頭の挨拶」の袋詰めの作業をする。あるいは、事前に「X線写真3点セット」と「年頭の挨拶」90数名分をすでに袋詰めしておき、これに別刷り論文を入れればすべての作業が終わる状態にして、1月1日(水)に別刷り論文が届くのを待っていたと思われる。そして1896年1月1日(水)に別刷りが届いたら、直ちに残りの作業を行ったものと思われる。そして夕方にレントゲンはベルタ夫人と連れだって速報の投函を終えたという記録がある。こうして「X線発見」の知らせは、公的「論文の別刷り」と「レントゲンの私的情報であるX線写真3点セットと年頭挨拶もかねた連絡文」をパッケージにし、90数名に限定されたレントゲンからの個人的なダイレクトメールという異例な方法で行われている。                        

□1ー4.レントゲンの情報戦略

このように見ていくと、12月28日から1月1日までの5日間は,無理に無理をかさねて詰め込んだスケジュールというよりも、情報漏れが発生しないように事前に徹底的に練り上げられたX線発表計画であることが見えてくる。このスケジュールを逃すと、論文の別刷りが配布されるのは1月1日よりはるかに遅くなり、発表前に研究内容が「死の光線」や「悪魔の光線」という不穏な話として世間に歪曲されて漏れ出てしまうのは不可避だろう。もっとも致命的なことは新聞報道の誤った内容や噂話が先に漏れ出てしまったとき、それを科学的に修正し、レントゲンを支援し説明できる科学者が皆無に近いことだろう。これは、レントゲンが孤立し、もっとも社会的に危険な状態に追い込まれかねない最悪のケースである。これがレーマン教授をはじめとしてヴィルツブルグ医学協会の編集委員に破格の決断をさせた理由であろう。

レントゲンが思い描いていたX線発表の情報の流れは、先ず、1月1日に発送した論文の別刷りと写真のセットが、年明け早々に各地の主要な研究者・友人に届く。それを受け取った研究者たちは「ベルタ夫人の手のX線写真」を一瞥してただ事ではないことを理解する。そしてすぐに「別刷り論文」を読み通すだろう。その人たちは、同僚や友人や関連研究者などにその内容を伝えるか、研究会を開催しそこで議論されていく。90数名の科学者を起点として一般大衆から隔絶された学会人の情報ルートに乗ってX線の発見に対する科学的理解者は短時間で急速に拡大していくはずである。

その後、各地の新聞記者がどこかの研究会から歪んだ情報として、キャッチし動き出しても、その頃には、多くの研究者が論文を読了し、互いに議論も交わしているので、X線に対する扇情的反応に科学的見地から冷静にコメントできる支援体制が各地で形成されているはずだろうと、レントゲンは考えたものと思われる。

例えば、年明け早々の1月4日にウィーン大学のエクスナー教授は、レントゲンから送られてきた別刷り論文とX線写真を研究会で紹介すると、会場はたちまちX線についての議論で沸騰している。どの研究会においてもベルタ夫人の手のX線写真が注目を浴びたことだろう。論文の別刷りは学会発の公式な学術情報であり、それに添えられたベルタ夫人などの3枚のX線写真はレントゲンの私的情報である。それがいまやX線写真が主役となり別刷り論文に権威を与えるかのような逆転現象が起きていく。その研究会に参加していたプラハ大学の物理学教授のエルンスト・レッヘルは、父がウィーン新聞の編集長をしていたこともあり、論文とX線写真を借り受け、ただちにX線発見の報をその新聞社に持ち込んでいる。こうして1896年1月5日にウィーンの新聞『プレッセ』紙が初めてX線発見の報を伝えている。レントゲンの地元のヴィルツブルグでは、その4日後の1月9日になってようやくその新聞報道をしているので、レントゲンはX線発見の情報をどこにもリークせず、できるだけ新聞報道が遅くなるように、マスコミを完全に無視したものと思われる。その方がレントゲン発の別刷り論文がより多くの研究者に読まれ、事前理解される時間が確保されると、考えたからだろう。

 これは、同業者である科学者の間で順調に情報が流れていった場合であり、必ずしもそういかない場合もあったようだ。たとえば、プロイセン物理学会の幹部のもとにもレントゲンのダイレクトメールが届けられるが、写真と論文を読んでもそれを客観的事実と判断できず、プロイセン物理学会の記念式典の場において正式の発表は差し止められている。この世紀の大発見は会場の片隅にポスターとして掲示する処置にとどめられていた。丁度その会場に来ていた長岡半太郎は、このポスターを見つけて驚き、直ちに日本に報告をしている。これは時代を画する発見に際してよくみられる研究者の典型的な2つの対応パターンともいえる。一つは絶えず自分自身の論理性と格闘しながら新事実を判断しようとしている人と、もう一つは論文の内容ではなく高名な人がその論文をどう判断するか顔色を伺って自分で判断をできない、あるいはしない人の場合である。パラダイムが変化する時代の曲がり角では、こうした日常の学会においては見えてこないスタンスの差が大変わかりやすい形で露呈してくるようだ。

 こうした様々な科学者の反応を抱え込みながらも流れは、ひとまずレントゲンの情報戦略どおりにことが進んでいく。しかし、新聞報道は、だんだん様子があやしくなる。伝言ゲームで伝言が繰り返されるごとに情報がゆがんでいくように新聞社から新聞社へ打電された内容が伝えつがれていくにつれ、X線の記事はレントゲンの意図を越えた方向へ変化していった。それは、レントゲンが当初危惧していた「死の光線」というリスク対策のターゲットとはまったく逆の方向に急旋回し、「X線ブーム」と呼ばれる大きなうねりを形成していった。

(1-5 . へつづく)

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レントゲンのリスク意識(1) v6.07

By   2020年5月22日

       レントゲンのリスク意識(1)                                                                               

                            A5MSPV6.07                                           森雄兒

第1章 X線の発見

□1ー1.はじめに

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図1.W.C.レントゲン

W.レントゲンが正体不明のX線の存在に気づき、実験を始めたのが1895年11月10日といわれている。時代は、もう新しい事は何も起きないだろうという閉塞感が漂う19世紀末である。彼は一人実験室にこもり、自分の体の骨を映し出す現象を前に、X線まみれになりながら研究を行っている。

彼が、こうした不思議な現象に直面したのは、宇宙に充満しているエーテルを伝播している縦波の波動現象を探索している途上おいてのようである。当時、陰極線の実験は多くの科学者が行っていた平凡な追試だが、一瞬見えた不思議な発光現象をレントゲンは見逃さなかった。

レントゲンが発見したX線は、人体を透過し、体内の骨が丸見えになった。しかし、X線の発見は、世界中から恐怖ではなく絶賛をもって受けいれられた。そして、こうした摩訶不思議な線は他にもあるにちがいないと、ただちに第2、第3のX線探しが始まった。そういう動きを待っていたかのように、1ヶ月後、フランスのベクレルによってウラン鉱石から放射している新しい線が発見された。 

 当時の日常生活の中には、ノーベル賞クラスの説明できない現象がひっそりと存在していた。通常はその原因を「不良品の感光板」のようないわれのないせいにしてしまい、その正体を封印してしまっていた。そのような閉塞的な雰囲気の世紀末において、これほど不思議なX線が社会の中で公然とその存在が認知され、世紀末の空気を一変させてしまった。その結果、X線発見以降はまるで連鎖反応でも起こしたようにベクレル、キュリーと放射線、原子核関連の発見が相次ぎ、20世紀の核の新時代の扉が突然開かれていった。

 こうして「X線研究」というレントゲンの研究活動が、多くの人に新しい知見をもたらすと同時に放射線障害も及ぼしていく歴史がはじまった。その後の科学者の多くは「知的創造」の場面に携わり、被ばくという「負の遺産」は、大部分が市民、作業員、兵士を被爆者として引き受ける分業体制の中で生きていくことになる。こうしてみると、レントゲンは放射線を発見した「創造的知性」の人であるとともに、その結果、X線にまみれて被爆する「負の遺産」も自分の肉体で受け止めるという特別な境遇を生きた人ともいえる。

自分の輝かしい「人生の結晶」が他者を傷つける、という問題を冗舌に語る人はほとんどいないだろう。また、それについて語っている資料はとても少ない。「創造的知性」と「負の遺産」の分業化がさらに徹底している現在においては、そこに潜む問題点を解きほぐすことがだんだんむずかしくなっている。

以下ではそういう特別な境遇にあったW.レントゲンをとりあげ、彼の歴史的発見の背後にひっそりと横たわる「被ばく」という「負の遺産」を彼がどのようなリスク意識でとらえたのか、という視点から「X線の発見」過程をたどり返してみたい。まずは、レントゲンがとった最初のリスク対策といえる、「X線発見」を公表するためにとった特異な情報戦略の話からはじめてみよう。

「1-2.不吉なX線」へ続く
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中・高校生が「重さ」「質量」の混乱をのりきるための対策は

By   2020年5月12日

中・高校生が「重さ」と「質量」
       混乱をのりきるための対策は?


 現在の中・高校生を中心に、理科(物理)を学習中の人(就活中で、クレーンなどの資格を取得するために勉強中の人)も含めて「kgの意味がわからない。」、「重さ、質量、重量、荷重の区別が分からない。」ことで混乱している人が多数いることがわかってきました。

 ■その原因は、一方の生活では「kg:質量=重さ=重量」とする混用政策が推進され、他方の理科教育では「kg:質量」、「重さ、重量:Nニュートン」と分離を指示するという、経産省のダブルスタンダードな政策が原因です。そうした混乱にいつまでもまきこまれていたいと思う人は誰もいません。誰しも、不安になる混乱はできるだけ早く、解決したいと、思うものです。今回は、その具体的な対策について考えてみます。

(1)最善の対策

■最善の対策の中身は単純です。「質量」と「重さ、重量など」の科学用語の混用政策を即刻やめる事です。「生活」と「理科教育」の世界に矛盾と混乱を持ち込まないことです。 現在、政府は公言を差し控えていますが、国民が生活で使える「重さ、重量:kg重」の単位を廃止してしまったので、いま国民が生活で商品売買に使える「重さ」の単位は、何もありません。使えるのは、「質量」だけです。だから、代わりに「質量」を「重さ」と呼ばせる(擬装させる)混用政策が必要になったのです。

■今まで使っていた「重さや力」の単位「1kg重」(または、1kgw)の意味をここでおおまかにおさらいしましょう。ーーーー水1リットル程度の物質を質量1kgとしています。(その後、1kgがだれでも誤差をすくなく再現できるように再定義が繰り返されています。)その1kgと決めた実物の重さが1kg重です。

■戦前は、その「重さ:kg重」の単位のユーザーは工学系や一般国民で、「質量:kg」は、理学系の人でした。戦後の急激な科学技術の進歩とともに工学部の大部分人が「重さ:kg重」から「質量:kg」の単位に鞍替えをしていきました。こうしてkg重のユーザーは1億の国民全員と、土木・建築工学、環境工学の研究者だけになりました。そして、国民を無視し、kg重の単位廃止に踏み切ったのが、1992年の計量法改正(改悪)です。

■国民には、そもそも「質量」概念を理解させるのは無理だから、「質量」を「重さ、重量、荷重ーー」の何でもよいことにして、区別不要とせよ、という愚民政策が経産省によって打ち出されました。小・中学校まで、生徒は生活の中で愚民政策の影響に浸り、質量=重さ=重量=荷重ーー」と混用し、あたかも重さの単位がまだあるかのように誤解させます。しかし、中学校の力学の授業から突然「kgは質量の単位」、「重さ、重量、荷重ーーなどの単位はNニュートン」と別々の概念と区別せよと知らされ、混用は混乱だったことがここで発覚します。
 従って、混乱を解決するためには、今まで使っていた「kg重」という重さの単位を廃止するのではなく、毎日の商品売買で引き続き使えるようにすることが不可欠です。

■商品売買の単位は、現在では理学・工学などの専門家は質量kgを支持し、学際的分野の研究者や全国民・消費者は重さkg重という2大勢力に分離しています。。従って、商品売買は、「質量:kg」と「重さ:kg重」の2つの単位のどちらを使っても良いことにして、国民は好きな方を、あるいは理解できる方を使えばよいのです。

■この2つを実行すれば、「kg」の意味は「質量」として科学用語どおり正しい意味で使われ、力の単位も正しく「kg重」や「ニュートン」と正しい用法になります。「科学用語」を生活の場で擬装し混用させ生徒を混乱させる必要がなくなります。


■物理学に無関係な市民は商品売買のさい「重さ:kg重」を用い、工場や研究所で物理学に従って単位を統一的に使用したい研究者・企業人は「質量:kg」を用います。はかりの目盛りは「kg重」と「kg」の2重表示が可能です。「kg」と「kg重」とはその単位の意味は全く違いますが、その絶対値は同じなので、はかりにKg重のラベルを貼り、2重目盛りにすることができます。

■このように「質量」と「重さ・重量」を明確に区別し、「重さ:kg重」と「質量:kg」をどちらでも使用可能とするのが、混乱を回避する理にかなった混用政策というものです。

(2)次善の対策

■いま何が何でも「質量:kg」だけの一貫した単位系にしたい。これこそが日本経済のためだという、信念を持ってしまった計量物理学者と官僚と業界が中心になって、計量法を改正(改悪)させてしまいました(1992年)。これに対して、ラベルを貼ってすむ部分修正の解決方法をどうしても拒否する場合、この混乱をどうかわすか、物理や理科の学習者にとって大問題です。この次善の対策を考えてみましょう。

■端的にいえば、経産省推奨の「生活の用語」は、物理の力学の世界の「科学の用語」とは無縁で論理的整合性はないとあきらめることです。

経産省推奨の「生活用語」では、「重さ=質量=重量=荷重=―――:kg」です。(混用政策)


「科学用語」では、「重さ・重量」は「力:N」です。「質量」は「物質の分量:kg」です。

■ 再度言いますが、この2つの世界は両立しません。別々の世界とわりきるべきでしょう。従って、もっともストレスがかからない方法は、やむを得ず、教室の中において(試験直前だけでも)「生活用語」を無視して「科学用語」を丸暗記することです。

■「kg:質量(物体の分量の意味)」は、科学の世界の中心的とも言える概念ですが、それを知らなくても物理系の専門職でなければ、ほとんどの職業で何の問題もなく生活ができます。ただ、これから先どういう職業をめざすかわからない子供たちの将来を考えると心配になります。「生活」と「科学」は深くつながった同じ世界であるにもかかわらず、異なる言葉の意味で使われているのは不合理ですが、正しい、科学用語の意味をできるだけ「実は・・・、」と心の片隅においておくことが望ましいでしょう。

■たとえば、新聞には「ニュートリノの重さ(質量)を発見!」などという変な括弧付きの記事をよくみかけたことがあると思います。多分、それを書いている新聞記者自身も納得がいかないで書いていると思います。そんな記者の気持ちを忖度すれば―――混用政策では「ニュートリノの重さ」だが、本当は「ニュートリノの質量」という意味なのだけれど―――とでも思いながら、仕方なく「重さ(質量)」などと変な文章を書いているのではないでしょうか?
 こうした混用政策は国民を質量を理解できないと、見下した愚かな政策であると公言される日が一日も早くやってくることを願いたいものです。(2020/06/2 , Y.Mori)

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